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【平家物語】巻03_07 少将都帰


治承3年(1179年)正月には、鬼界が島を発った成経と康頼は肥前の地にいたが、寒さの厳しい時期なのでそのままその地に留まり、2月に備前国に到着した。そこで成経の父・成親終焉の地に赴き、亡き人の住居跡と墓地を訪れる。
さらに3月にはいよいよ都とは目と鼻の先・鳥羽へ。かつて成親も流罪の折にその脇を通って配流の地へ向かった、成親の山荘「すはま殿」に、成経と康頼は足を踏み入れた。
住む主なく二年半の歳月を経た邸内は荒れ果て、昔日の華やかさはなかったが、亡き人が愛でた庭には、水鳥が遊んでいた。庭の木を、妻戸をひとつひとつ思い出す言葉ごとにこぼれる涙を、成経は止めることができない。
その後ふたりは都へ帰還したが、苦しみを共にしたゆえに離れがたく、七条河原まで同じ車に乗っていった。

そこでようやくふたりは離れ、成経は舅・宰相教盛と、その娘である北の方、そして都を離れている間に生まれた我が子と対面した。
そののちは院に元のように仕えたという。

一方、康頼は東山双林寺に所有する山荘へ向かい、その地に落ち着いた。のちに「宝物集」という仏教説話集を著している。

京に帰還した成経が向かったのは、教盛の門脇邸ですから、いまの六波羅蜜寺の近所。康頼が向かった双林寺はいまの円山公園の近所。七条で分かれなくても、門脇邸は円山公園に行く途中じゃん…とか思ったんですけど、そこまで一緒に行っちゃうと、康頼は清盛の本拠地六波羅を縦断することになるから、迂回したんですかね~。
なんとなく名残惜しくて、車は二台あるのに一緒の車にのる二人。ほほえましい。ほほえましいんだけど、既にこの人たち、俊寛のことは過去にしてますね。
3人旅行で2:1になったときの、なんともいや~な状態を彷彿させます。

最初、成経と家族の対面シーンにしようと思ってたんですけど、読み直したらここが描きたくなって、こっちにしました。

成経は、肥前(長崎・佐賀)→備前(岡山)→鳥羽→京と移動していきます。戻るのは嬉しいんだけど、うれしいんだけど、体が戻るだけで、戻らないものだらけなんだ…っていう自覚が、じわじわ積もっていくんですよね。我が子の成長だって見られなかった。そのせつなさがピークに達してるシーンが、今回のシーンです。
クレバーな人ではないんだろうけど、でもホントに幸せに苦労なしで育ってたんだろうなーって思える、好きなシーンです。父親の成親は、政治的な立ち回りを見てると、そんなにイイ奴には思えないけど、でも成経にとっては、そんなこと関係なく普通のお父さんなんですねぇ~。

康頼が帰郷後に書き著した「宝物集」は仏教説話集です。島流しに遭ってもうダメだ…と思ったところから戻ったことで、信心が深まったんですかね。