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【平家物語】巻03_10 ツジカゼ


治承3年(1179年)5月、午の刻(昼12時)ごろに、京にすさまじい辻風が吹き荒れた。
風は中御門京極から起こって南西に進み、棟門などを4・5町は飛ばした。
柱や長押などは空中に散り、まるで木の葉のようであった。
被害は家屋ばかりではなく、人もおおくうち倒された。
この災害は何かの凶兆かもしれないということで、直ちに占ったところ、
兵乱勃発の兆しであり、高禄の大臣が身を慎まねばならないとの託宣が、神祇官からも陰陽寮からも出された。
この時の「高禄の大臣」とは、重盛その人のことに他ならない。

「鹿ケ谷の陰謀」首謀者処分のエピソードは終わり、ここからは重盛の死に向かってお話が進みます。
さて、この辻風ですが、同時代の貴族の日記等からみると、実際に起きたのは『平家物語』で記載されているよりも1年後、治承4年の4月末のできごとでした。『方丈記』の第二段にも「治承四年卯月のころ、中御門京極のほどより、大きなる辻風おこりて、六条わたりまで吹ける事侍りき。」と記載されていますが、『平家物語』での描写は方丈記にそっくり。
方丈記の記述を平家のほうがパクったのではないかと言われてるそうです。辻風がおきた時期が1年前倒しになっているのは、1年後だと重盛が既に死んじゃってるから。この辻風と重盛の死とを関連付けるという演出ですね。

それにしても災害が起きて、大臣が100日間「身を慎んで潔斎」とは…。いまの日本でそんなことやったら「緊急事態なんだからちゃんと働いてよ~!」ってなりそうです。

さて、辻風が起きた「中御門京極」ですが、京の北東、今の京都御所の近所です。そこから南西に六条方面へ辻風が進んだということなので、京をナナメに通っていっちゃったわけですね。しかも、貴族の屋敷が多い左京側を。鴨川の東側にある清盛の西八条邸や六波羅付近はコース外ですが、コース上には藤原基房、基通ら摂関家の人々のお屋敷、清盛と仲良しの藤原邦綱邸もあります。
主要な貴族の屋敷がかなり入ってしまっているので、動揺は相当大きかったのではないかと思われます。