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【平家物語】巻01_14 願立


山門(比叡山延暦寺)に対立した者にどんな仏罰が下るのか。事例を紹介する。
かつて、嘉保二年に美濃守・源義綱の罷免・処罰を求めて日吉神社の社司、山門の寺官が内裏に押しかけた際、後二条関白・藤原師通は、強攻な態度を取り、社司・寺官に死傷者が出た。
そこで、山門では後二条関白を呪詛。「後二条関白殿に、鏑矢を射当て給え」と祈ったところ、翌朝、関白の寝所に、今採ってきたばかりのような樒(しきみ)の枝が刺さっていたのである。
その後、関白は病に倒れ、その母君が七日七夜を祈願を立てたことで三年だけ命を長らえることができたが、結局38歳の若さでこの世を去った。

平家物語に頻出する、脱線エピソードのひとつです。
「山門を怒らせると怖いぜよー」の例として、1090年代の藤原師通のエピソードを紹介しています。ちなみに本編は1177年とかそのあたりですから、90年くらい前の話ですね。
この章段は、師通様のママ上がご神託を得るところもなかなか漫画にしたら面白い場面なのですが、いろいろ迷って、結局このシーンをまんがにしました。早く若い人をたくさん書ける巻まで到達したいです(巻2の後半あたりからか…?)。

藤原師通は、「この世をば…」の歌で我が家の栄華を詠んだ、藤原道長のひ孫にあたります。道長の長男・頼通の息子である師実が、師通のお父さん。師実は六男でかつ嫡妻の子ではありませんが、頼通の嫡男が早世したことで、繰り上げ当選的に摂関家を継いだ人です。頼通の世代では兄弟間での勢力争いもあり、師実が家を継ぐのは簡単ではなかったのですが(末っ子だから年若ですしね)、そのへんはこの記事の本題からずれるので割愛します。

この師通さんの時代というのは、白河院の時代。
師通が若くして死んでしまったことで、その息子である藤原忠実の基盤が脆弱になり、白河院政が権力を増し、摂関家勢力が衰退する…という時代が到来しました。忠実の子(=師通の孫)が、保元の乱を引き起こす忠通(兄)や頼長(弟)。この兄弟も兄弟間で争って足を引っ張り合ってます。
さらに次の世代が、忠通の子である基実や基房、兼実です。ここに至ると、藤原家の自力で摂関家再興を狙うのも難しく、それぞれが平家なり院なりの別勢力と組んで生き残りをはかる作戦が専らになっているわけです。

さらにさらに次の世代になると、鎌倉幕府も始まって、すっかり権力から遠のいちゃうわけなので、この平家物語の時代が摂関家にとって最後の「でもなんとかなるかも…!」という最後の巻き返しチャンスの時期だったのかもしれませんね。
本人たちにもおそらくその焦りみたいなのはあったのでしょう。私たちが、「うちの会社やばいかも」という空気を感じ取ることができるように。

そろそろ絵の話を。「樒の枝が…」ってくだり、「えっ、シキミって、あのお葬式とかで使う“おしきみ”のこと? “枝が刺さる”ってイメージ湧かないなぁ…」と首を傾げつつ、とりあえず絵にして見ました。
うーん…、枝ってよりも茎っぽいから、刺さるってよりも生えてきたみたいに見える(^^;

この時期、平家が何をしてたかといいますと、この1年くらい前に、皆で厳島参詣したり、後白河院の五十の御賀やったりしてます。1175~1176年あたりが平家の最盛期だったのかもなぁ。
76年には平家全盛期をバックアップしてくれた、頼りになる女性・建春門院が死んじゃいますしね……しょぼん。