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【平家物語】巻01_11 殿下乗合


嘉応元年(1169年)7月に後白河院は出家。
後白河院政下であり、政務は相変わらず院の手中だが、院は平家の台頭を内心面白くなくお思いであった。
そんななか、朝廷と平家の関係を象徴するような事件が起きる。
嘉応2年、鷹狩り帰りの平資盛(清盛の孫であり、清盛嫡男重盛の息子)が、摂政・藤原基房の牛車と出くわした。
下馬の礼をとらずにそのまま通り過ぎようとしたため、摂政の従者に掴みかかられ、ほうほうの体で逃げ帰るに至ったのだ。
父親の重盛は我が子の非礼を恥じたが、祖父・清盛は激怒、数日後に郎党に摂政の行列を襲わせ、復讐を遂げたのだ。
重盛はこの事態を憂慮したが、世の人々は平家の悪行が此処に極まったと噂するのであった。

お馬さんを描くために、動物ポーズ集を見るわ競馬の本を見るわ、写真集も漫画も馬が載っているものは全部かき集めました。疲れた……。このまま描き続けるうちに、もうちょっと巧くなっていけるとよいのですが。

さて、このお話。
この展開には平家物語作者の脚色がずいぶん入っていて、本当のところ、激怒して仕返ししたのは父である重盛だったというのが、『玉葉』に記されているのは有名な話です。
藤原基房というのは、清盛と昵懇で、清盛の娘・盛子を妻にしていた藤原基実とは腹違いの兄弟。基房と基実は不仲です。資盛が憂さ晴らしのターゲットにされたのも、舐めんなよとばかりに重盛がやり返したのも、重盛が親バカだった……というだけではなくて、政治的思惑もあったのでしょう。

資盛のお出かけの状況も、実際は、このまんがのような「鷹狩り帰りの騎乗」ではなく、女車に乗ってお出かけしてるところだったそうです。ということは、お仕事モードではなく、ごく私的な軽いお出かけ。どこ行ってたんでしょうね。このとき資盛は小学6年生くらいの年齢。恋人のところ……ってのはちょっと早い気もしますが。
摂政の従者にいいようにボコられちゃうあたり、小生意気な子だったのか、ただのぼんやりさんだったのか、どっちだったんでしょう。「建礼門院右京大夫集」を読んでいる限り、かなり「カッコつけ君」のようなので、前者だったのかなとも思いますが。

平家物語でのこの「殿下乗合」の描写ですが、摂政の従者のなかには、相手が清盛の孫であることをわかってる奴もいたけど、ボコりたかったから敢えて黙ってた……っていうくだりが、なんだかいかにもアリそうで、面白いです。プロ野球の乱闘で、嬉々として遠くから走ってきて乱入してる人みたいな。あれっ、でも今も乱闘ってあるのかな?昭和の風習?