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5月12日 不幸の野菜

バイトを終えiPhoneを見たら通知、母からのLINE。「明日夜指定で、野菜を送った」あいにく明日と明後日は不在である。その旨返信すると、「送るのを取りやめる事ができた」「スナップえんどうを食べさせたかった」と返ってきたので「お手数かけました」と短く返したら既読がついたが返信はない。つくづく仲をこじらせているな〜と思う。少し笑える。

荷物ひとつでこんなにまで気持ちがざわつくのは理由がある。そもそも今年の初めに、野菜は送らないでくれと頼んであるのだ。角が立たないように、急に送られるといろいろ困るからと伝えて断った。角が立つと面倒だから。子どもに野菜を送るという自己満足を満たさせてやれずに申し訳ないが、母からの野菜が届くと暗い気持ちになるので、自分を守るために悩んだ末の決断である。

急に送られることに困るのも本当だ。スーパーで野菜をしこたま買い込んできた後に限って野菜が届くもので、捨てるのも嫌だから始末に追われる羽目になる。自分には買いすぎ、物忘れが激しい傾向がある。加えて躁状態の時はいろいろ作りたくなり食料品の買い物が爆発するが、買うと満足して意欲を失い、作らなくてはと追い込まれ苦しくなる。これを防ぐため、買い物は一週間の献立をたてて行い、買いだめはせずに使い切りを目指す形で運用してきた。このような傾向を日々の訓練で飼い慣らしてきた身としては、突発的な出来事は非常に困るのだ。
このような事実から眺めてみても、母娘の気持ちはすれ違っているのだろう。妹から母が寂しがっているときいたが、こちらとしては清々していた。

母からの荷物、と聞くと暗い気持ちになったのにはきっかけがある。
一昨年の正月、野菜とともにぶ厚い手紙が送られてきた。母らしい乱筆乱文で、「いま娘であるわたしが幸せなのは、宗教のおかげである」とある。この一文を読み、頭に血がのぼった。歯を食いしばってつかんだ平穏な生活。わたしが幸せだとしたら、それはわたしのおかげなのだ。mに話すこと数時間で怒りもおさまり、無視することに決めた。反応するだけ親切なのだ。今さら責める気にもならない。なるべく関わらずに、心の平安を保つことを心がけよう。

その週、弟から珍しく電話が入った。彼のもとにも、野菜と手紙が届いていたのだ。
家族でただひとり宗教を拒否し、思春期から現在まですべて自分で決めて自分の道を歩いてきた弟にも、今の幸せは宗教のおかげと書いてあった。それを読んで弟は
「なんかね、悲しいというかね。なんともいえないね」。
弟はわたしと違い、真っ当な道をコツコツと歩んできた真人間であり、実家や母親への責任を感じる真面目な長男だが、同じ母親を持つもの同士の連帯感は深い。
「あんな不幸の手紙は捨ててしまえ。私はすぐにゴミ箱に入れた」というと弟は力なく笑い
「ありがとう、気が楽になった」と言った。

十五歳でその宗教に出会い、完全に離れてから十五年になる。長くなるのでここには書かないが、紆余紆余曲曲折折あり、まだ信仰を続ける母とわたしは、別々の道を歩いているというわけだ。

食い意地だけは本当に欲深いわたしだが、有機野菜や玄米が届かなくなっても、とれたての甘いプチプチのスナップえんどうや、少し苦いくらい新鮮な小芋が食べられなくなっても、惜しい気は全くしない。むしろ「有機無農薬栽培」の野菜をみると栽培者、栽培を始めたきっかけ、栽培者の家族などに思いが巡り、すこしイヤな気持ちになるくらい、無農薬と私はややこしい関係になっている。

写真は、連休中の名古屋にて。KINGコーヒーは、驚くほどふつうの味わい。

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