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やさしさについて

ふっと気がついた(のでまだ誰にも話しておらず、ごくごくありふれた悩みな可能性がある)話があって、この話は私という人間のパーソナリティと紐づいている場所で発信した方が面白そうな気がするので、あえてここに書いてみます。

日常、「気づかない振り」をすることがあまりにも多すぎる。
これは例えば「冷蔵庫の麦茶を最後の一口ちょい残しする」とか「トイレットペーパーの芯を捨てずトイレに置いたままにする」とか、匿名性を隠れ蓑にしてちょっとだけ義務から逃れる、みたいな類のものではない。むしろそっちに関してはやる≒やりたい方だ。でも私は自分の「気づかない振り」の方がなんとなくタチが悪い、気がする。

今日、最寄りのファミマに荷物(割と急ぎで届けてほしいもの)を発送しに行った。Loppiみたいなやつ、名前がわからんけどそういう機械でレシートを発券し、それを荷物と一緒に店員に渡すと配達業者に引き渡してもらえる仕組みだ。
私が行ったときはちょうど配達員が荷物の集荷に来ているところだったけれど、ここで私は気づかない振り①(早く届けてほしいと店員にわざわざ言うのは申し訳ないしとりあえず見なかったことにする)をした。
そして手続きを終えて店員に荷物を渡したところで、ちょうど配達員が集荷を終えて店を出て行こうとした。親切な店員は配達員を呼び止めて「もう一個行ける?」と聞いてくれた。
ここで気づかない振り②(店員の親切により自分の荷物が早く届くことになったのにお礼を言わない)が出た。

特に②のとき、客観的に見て絶対にお礼を言う(せめて頭を下げる)方がいいと分かっているのになぜかそれが出来ず、謎の罪悪感を抱えながら店を出る。
こういうことが、私の生活には本当に多い。大げさでなく、自分以外の人間と少しでも関わる場では、ほぼ確実にこの悪癖が出る。

誰かとご飯を食べる時。電車で移動する時。席を立って帰路に着く時。
「水がセルフサービスだから取りに行った方がいいな」「あっちの車両の方が空いてそうだし移動して座った方がいいな」「ゴミを全員分まとめて捨てた方がいいな」全部脳裏に過ぎる。でもそれらを実際の行動として出力するまでに、かなり大きめの壁が一つある。
「面倒くさい」がないとは言えないけど、上記3つは面倒にもならない些細なことだと自分でも思う。一歩踏み出せば、少し手を伸ばせば簡単にできることだと、頭では分かっている。
そんな簡単なことができない理由としては、自分の行動に自信が持てない、というのがおそらく一番デカいな、と思う。

例えばさっきの例のひとつ、たまたま入ったレストランで水がセルフサービスだったとき。
私は氷を入れる派で水を8分目くらいまで入れる派だけど、そうでない人もいるだろう。各々希望があって然るべきだ。なんなら、使うグラスを知り合いに触られたくないという人もいると思う。
じゃあ、水をどれくらい入れればいい?氷はいるか?そもそも自分が入れてきてもいいか?聞くのもおかしな話で、それこそ鬱陶しいだろう。
椅子を引いて立ち上がるまでの間に、そういう想像(妄想)がいくつも浮かぶ。そうしてしり込みしている間に、自分でない誰かが立ち上がって、水を取りに行ってくれる。
水が8分目でなくても氷が入っていなくても自分は一向に気にならないのに、自分の起こした行動が原因で失敗するのが怖い。「余計なお世話だ」と思われるのが怖い。
結果、水がセルフサービスなので誰かが取りに行かなければならないという事実に「気づかない振り」をすることになる。

今日のファミマでの話も同じだ。
「こうすべきだ」という正解は分かっていても、咄嗟に口が開かない。店員と配達員の会話を邪魔できない。結果、何も言わずに立ち去るしかない。

私は「行動力がない」と評価されることが多い。それはある意味では合っていて、ある意味では間違っている。

自分の選択が原因で他人に不快な思いをさせるくらいなら動かずにいる。それがもう私の中で当たり前になりすぎていて、知らない振りが板につきすぎていて、人と何かしら関わっている間は罪悪感にずっと苛まれている。
この罪悪感はものすごく身勝手で、相手に取ったら知ったこっちゃない話だし、本来は行動を起こすことで簡単に振り払えるものだと分かっているので、抱えているとかなり体力を消耗する。
そして、そんな思考の過程や罪悪感は周りには見えないので、結果として「動くべき場面で動けない人間」という評価が下される。ごくごく当たり前のことだ。

でも、人に迷惑がかからない環境や、自分がイニシアチブを取っても良いと全面的に認められている環境だと、私はかなり大胆になる。心の動いた方へどこへでも進んで良いという免罪符を得れば、何にでも踏み出せてしまう。
普段からそんな風に振る舞えればいいのに……と思っているけど、それはできない。ペンギンに「水の中であれだけ泳げれば陸の上でも速く走れるでしょ」と言うのと同じことだ(と思う)。

こんな救いようのない状態になっているそもそもの原因としては、私が「優しさ」という言葉、その概念をうまく理解できないことがある。
優しさ、思いやり、どちらも苦手だ。人の数だけ意思があるのだから、人の数だけ優しさや思いやりがあって然るべき、そこに明確な答えはない。
最大公約数的なものがあったとしても、目の前にいる誰かがその最大公約数を欲しているとは限らない。
長く付き合えばある程度分かるようになったりもするけど、それも「分かった気になっているだけ」かもしれないと思うと胸が苦しくなる。
結果、他人からの優しさや思いやりを享受するだけして何も返せない、自分勝手な罪悪感でぶさいくに膨れ上がった人間が出来上がる、ということだ。

一言でまとめると「人と関わるのが下手」ということに終始すると思う……ほんとうに、そう思う。
実はこれでも年を経てマシになってきた方だけど、この先のことはまだ何も決めていない。少しずつ図太くなって出来ることを増やしてゆくのか、それとも人と関わるタイミング自体を減らしていくのか。
前者でないとさすがに生きていく資格がないな……と思う一方、ずるずる後者になっていきそうだな……とも感じる。

こんなに私を苛んでやまない「優しさ」という概念について一緒に考えてくれる人、答えは出なくとも思いを巡らしてくれる人、大募集中です。

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