ぼやける世界

 朝、起きて辺りを見回すと、遠くのものがほとんど見えない。視力の低下と付き合う時間が年々増えてきている。周りにあるものがぼやけて見え始めるようになってからというものの、自分の周りにある世界の形がなんだかよく分からなくなってきたような気がする。
 子どもの頃は視力の良さが自慢だった。幾度となく母に怒られようとも画面に近づいてTVゲームをやっていた。「いつか目が悪くなる」と脅されていたが、少なくとも22歳ぐらいまでは視力の低下も全くなかった。母を信じることのできなくなる理由の一つ。
 大教室の後ろに座っていると黒板の字が見えないな、と感じるようになったのが視力低下の気づきの始まりだった気がする。そこからはあっという間だった。車を運転していて、夜に見えづらさを感じ始めるようになり、免許証の顔写真はメガネになり、今はもはやどこにいてもメガネがなければ何も見えない。ヘビーメガネユーザーたちからすれば私の"度"はオモチャみたいなものだそうだが、それでも私は多分もうメガネを手放せない。

 世界がぼやけてきているような気がする。視力が悪くなったということもあるが、ここ数年で随分忘れっぽくなったなと感じるし、あまり自分がどうということにこだわらなくなってきたなと感じる。そんなこともあるのかもしれない。身体的なものに対する感覚が薄れてきているような気もしないでもない。このまま世界から離れていってしまうのだろうか、どこかのタイミングでふっと消えてしまうのだろうか、そんな気もしている。
 自他の境目は「皮膚」だと言う人がいた。一方で同じ元素であり何の違いも無いという人もいた。自分の感覚は後者に近づいてきている。ホーキングが言うように自分とは遺伝情報を伝えていくための装置でしかないのかもしれない。そんなようにも思うこともある。自分の力で視力を元に戻すことはできない。世界のぼやけを、「衰え」と表現することもできるのだろう。私は衰えている。

 中年の危機と言うには少し早いのかもしれない。しかしずっと前から年相応に見られることのなかった私だから、いま危機を迎えることもごくごく自然のことなのかもしれない。自身のやることに意味を見出すことが年々苦しくなりつつある。
 日本人は直線ではなく円環の民族だという。目標に向かい中長期のスパンで何かを為すのではなく、その日1日を平穏に暮らしていくことにこそ長けているのだとも言う。なるほどそうなのかもしれない、目標を手放そうとすると気持ちが楽になると感じる。そんなところで自分の属性を突きつけられるようで嫌になる。歴史や伝統の中に自分を位置付けたくないのだ。
 一方でそれは辛いことからの逃げかもしれない。「日本人だから」などと言うのも実に言い訳じみた、忍耐を知らぬ程度の知れた人間らしい考え方なのかもしれない。出自の問題ではなく、能力の問題かもしれないということ。余計救いの無いようにも感じられる。結局のところ、何が正しいかは分からない。

 そう、何が正しいかはもう分からない。何が正しいかを知っていたから、少し前まで世界の輪郭は保たれていたのかも知れない。今はもう輪郭など触れるよしもない。油断してしまうと興味すら無くなっていくような感覚さえもある。
 ぼやけた輪郭に触れようとしながら私は生きている。触れられるかどうかは分からない。端的に言って疲れてきてもいる。少し休みたい。それでひょっとしたら、ここまで書いたことも全て気の迷いとして終わることになるのかもしれない。

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