新しい物語

 新しい物語を作りたいと思った。new culture,new pop, new trad,new story.どう形容してもいいが、だいたいそんな感じのもの。

 私がポストモダンと呼ばれる思想でいうところの「大きな物語の消失」を大学で初めて学んだ頃には、すでに私の周りにあった「大きな物語」は風前の灯火であった。SNSが普及し、誰もが自らの意見を自由に発信できるようになった結果として、私たちの世界には「ある側面ではダイバーシティであり、ある側面ではフェイクであるもの」がとどまることなく充填され、そして「ポスト・トゥルース」に満ち溢れた世の中が到来した。「ポスト・トゥルース」の時代の波の中で、「大きな物語」はもはや息をしてはいなかった。事実、テレビ番組に対する市民の疑いの目はこれまでのどの時代よりも鋭くなっている。
 そして、その「ポスト・トゥルース」も、今や更に塗り替えられようとしている。ChatGPTを代表とする生成AI、あるいはグレート・ファイアウォールを代表とする大規模なデジタル統制システムとでも言うべき存在の台頭である。それはまさに、かつて語られた「ビッグ・ブラザー」と見紛うようなものである。彼らに、例えば自己の存在に対する疑念を投げかけても、「世の中には無数の答えがあり、それを見つけるのは自分次第である」という"たった一つの疑いようの無い真実"が長くても3-4秒程度で返ってくるのみで、それ以上のものは何もなく、それ以外の回答は決して許されない。そこには私たちの思考もプロセスも、一切入る余地はない。効率化されているようで、私たちにとって最も大切なプロセスは搾取され、ついには枯渇すらしようとしている。

 「ポスト・トゥルース」時代の到来により無限にあると信じられた真実は、今や1と0が表現するたった一つの「真実」に向けて統制され、集約されていこうとしている。そこにある真実とは、無数のように見えて実際には一つしかない。「ワン・トゥルース」の到来だ。
 そしていま世の中は、「果たして誰が『ワン・トゥルース』になれるのか?」言い換えれば「いったい誰の『ビッグ・ブラザー』が世界を制覇できるのか?」を競い合っている。きっとここから先、そう遠くない未来に起こる大きな戦いの果てに勝利した「ワン・トゥルース」は世界を覆い、他のブラザーたちは跡形もなく消え去ってしまうのだろう。世界を覆い尽くすそれは、まるで「KILLER APE」というマンガに登場する「GAYLA」のようだ。そして「GAYLA」は、地球上の資源が全て消費され尽くすその日まで動き続けることだろう。
 そうして生み出されたものは、truthではあるが、storyではない。彼が3-4秒程度で語る「多様性」とは、1+1の答えが2であることと同義であり、「なぜ1+1は2なのか」についての無数の仮説と、仮説が捻り出されるまでの苦労の数々はカウントされていない。

 「大きな物語」とは言い換えれば歴史である。「ワン・トゥルース」の到来は、もしかしたら歴史を紡ぐことの否定にすらなり得るかもしれない。科学の極地たる人工知能は、自らを紡ぎ上げてきた歴史=プロセスを極端なまでに時間的に圧縮し、その意味を薄めてしまうからである。「タイパ」なる概念の台頭は、迫り来る歴史否定の時代を予見しているとも言える。
 欲しい答えは教科書や分厚い参考書の中でもなく、あるいは余計な指図をしてくる親や先生でもなく、ディスプレイの向こうで水に沈められた半導体のsquad達が教えてくれる。

 そういうものではない。気がする。人生とは、そういうものではないような気が、私はしている。

 私がここから先の自分の人生を何に使いたいか、と問われれば、"それ"に使いたい、とふと思った。
 例えばそれは、米食がパン食になったときに失われていくもの。漢字がカタカナ英語になったときに失われていくもの。高齢化によって開催を断念した祭りの中に内包されていたもの。人工知能によって圧縮されたプロセスの中に埋め込まれてしまったもの。
 決して復古主義になりたいわけではない。かつてあったものがなぜ消えていくのかと言えば、そこにはある種の煩わしさがあったからだろう。そして私はその煩わしさに対して幾分かの嫌悪感も持っている。だから、学校給食をコメ中心にしろとか、ダイバーシティという言葉の使用を禁止せよとか、そういうことを言いたいわけではない。

 私がやりたいのは、かつて普遍的であったものの中に存在していた「普遍であることがもたらす価値」を、うまく抽出して社会の中に練り込んでいくことである。「大きな物語」が抱えていた物語性を、現代的にアップデートしたうえで社会にインストールしていきたいのだ。
 それは、落合陽一のいうところのデジタルネイチャー的なものであるかもしれないし、宮台真司のいうところの体験質を共有するための試みであるかもしれない。ミュニシパリズムや、コミュニタリアニズムと呼ばれるものに通ずるものかもしれない。だが、私がイメージするのは別にそこまで大上段に構えるようなものではなく、もっともっと根源的で、地味なものである。(もちろん、結果的に大上段になれば、それはそれで楽しい)

 フジファブリックというバンドが好きだ。彼らは一貫して、如何にしてポピュラーにアプローチするかということに力を割いている。今も昔もそれは変わらないが、特に私が好きだったのは、初期のソングライター・志村正彦が行うアプローチの"さりげなさ"であった。
 「茜色の夕日」「線香花火」「浮雲」「陽炎」「打上げ花火」など、彼の紡ぐ詞において描かれる風景は、日々の暮らしの中で特段目立つものではないが、日本で生まれ育ったなら誰しも見覚えがあり、かつ、何かしらのノスタルジーを想起させるようなものだったと思う。そして、きっと誰もがそれらについて共感覚を抱き、語ることができるようなものだった。

 この"さりげなさ"は、きっとプロセスの圧縮される社会においては不要なものになってしまうだろう。私はその圧縮に抗いたい。私がこれからの人生、自らのフィールドにおいて作りたいものは、たぶん、そんな感じのものだ。
 誰もが共感覚を抱くことのできる、さりげない何か。プロセスの中で初めて意味を持つ、さりげない何か。


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