王道展開のたしかな満足度と、新たな挑戦を感じる映画


スーパーヒーロー戦記 を見てきました。

毎年夏にある仮面ライダー×スーパー戦隊の映画は楽しみに拝見しているのですが、筆をとろうと思ったのは初めてだったので、思いのたけを書いてみようと思います。

ネタバレの感想文になりますので、未見の方は是非劇場でご覧になった後に読んでいただければと思います。

本記事は偏った知識をもつ一視聴者の戯言です。また、本内容は映画を一度見た後での感想なので、細かい内容などへの認識誤りや、長い歴史をもつ仮面ライダー、スーパー戦隊への誤認がある可能性があることを踏まえたうえで、それを許容していただける前提のもと閲覧願います。

なぜ一映画の感想を書こうと思ったのか

それは過去に無いほどの完成度の映画であると同時に、一考するシーンがあるなと思ったからです。

比喩ではなく、映画を見ていて初めて大粒の涙が流れました。はっきりと覚えています。左目から二粒。右目からは一粒。映画を見ていて感動してウルっと来ることは何度もあります。ただ、普段仮面ライダー、スーパー戦隊を視聴している主な目的は、カタルシスであり、みえきりであり、殺陣であり、あまりそういう類いの感動寄りではないと思っています。人の心の強さやヒーローのカッコ良さなどで感動することはあるが、本作は少し趣向が違っていたように思います。

スーパー戦隊が45周年、仮面ライダーが50周年という節目だが、近年ネット上でもよく見るが、ヒーローにはやたら派手さやカッコよさが求められるようになってきている印象がある。

「このヒーローがかっこいい」「この技が好きだ」こういった声に支えられて、長年作品が続いてきた事は紛れもない事実だが、ファンを続けていると知ることになるが石ノ森章太郎先生が書いていたコンセプトは間違いなくヒーローとしての派手さやカッコ良さではなく、悲哀や苦悩にある。どちらが良いということではない。どちらもあったから今があったのだと思っている。それは仮面ライダー555における乾巧が「戦うことが罪なら俺が背負ってやる」という名セリフからも見て取れるし、OPのジャスティファイズの歌詞にある「守ることと戦うこと、ジレンマは終わらない」だったり、仮面ライダーオーズの挿入歌「Power to tearer」にある「心の強さたった今試されるとき 破壊者を守護者に変える」だったりに受け継がれている、力を持つことにより、その力の矛先で誰だってナニモノにもなりえる、それを決定づけているのは人の意思なのだ、と勝手に解釈している。(筆者がだいぶ平成仮面ライダーよりなので考えが偏っていてすみません。。)
人は退屈であれば刺激を求めるし、苦しい世界が続くなら平穏を求める。それが良いわけでも悪いわけでもなく、それが人間なのだと思う。作中にも出てくるが「ヒーローではなく人間を描いている」という石ノ森章太郎先生の魂とその意志へのリスペクトを十二分に感じさせるシナリオになっていたと思う。とはいえかっこいい姿も見たい。そのジレンマともいえる要素を両立させ、完璧な作品に昇華できていると断言できる。鈴木福さんは以前から仮面ライダー好きで知られていたから絶対に仮面ライダーとして客演があるだろうと思っていたら、その原作者の石ノ森章太郎先生役ではないか!仮面ライダー、ゴレンジャーを書くに至る、創造するものの苦悩を描くシーンから描かれたヒーロー、そこからサイクロン号に乗って登場する旧一号。過去に何度も客演してきた仮面ライダー一号だが、毎回「おおっ!出てきた!」という感動はあったものの、ち密に練りこまれた背景から登場するシーンには、非常におこがましいが、趣味でイラストを描くひとりの創造者としてこみ上げるものがあり、言いようのない多幸感に襲われた。

とかくシリアスシーンは欝々としがちだが、その本旨へと導く導線が非常に心地よい。それを担っていたのは間違いなく、ゼンカイジャーの本放送内にもある「こういうのでいいんだよ感」と、仮面ライダーセイバーの「本という物語」への没入体験によりくどくなく感じれる作りとなっている。それに加えて、戦隊&ライダーの客演のバランスも素晴らしい。良い塩梅とはこのことだ。「スーパーヒーロー戦記」は間違いなく、大きな感動と創造する人々への強烈なシンパシーとともに大団円を迎えた。新ライダーの登場も良かった。

かのように思えた。

毎年夏の映画を見ている方はご存じかと思うが、本映画は新ライダーのお披露目場的な立ち位置でもある。そのためスーパーヒーロー戦記のクレジットの後に、5分程度のお披露目があるんだろうなと思っていた。思っていたら、あれよあれよと仮面ライダーリバイスの新作お披露目会になった。

リバイスの出来は、正直良かった。新しいコンセプトも良かった。ラインスタンプと物理的なスタンプを合わせる要素も面白かったし、変身ベルトのギミックもディケイドライバー→ジオウドライバーの系譜から、次の新たな角度への技術的革新を感じた。悪魔との契約、俗っぽい入浴への欲求を持つバディというのも面白い。ただ、私はヒーロー戦記に満足していたのだ。EDのクレジットを見ながら余韻に浸りたかったのだ。新作ライダーの情報はちょっとで良かったのだ。はっきり言ってしまえばくどいのだ。おそらく時間にして20分程度。はっきりいって取りすぎである。見たい内容のボリュームとタイミングが完全に合っていない。TPOをわきまえていないのだ。

高級すし屋でお任せコースを頼んでお腹いっぱい。デザートを食べていたら
さっき少しだけ出てきたフィレ肉の切れ端が、分厚いステーキになって出てきたのだ。なんだこの寿司屋は。お任せといって最高のフルコースを食べた後にまたメインディッシュが出てくるのか。こうなってはフィレステーキの吟味はできない。
私は帰り際、スーパーヒーロー戦記、仮面ライダーリバイスの二作品を分けて見れたということで納得しようとした。支払った1900円へのせめてものいいわけである。大変失礼ではあるが、製作スタッフへの多大な感謝と同時に、分厚いフィレステーキを最後に持ってくる構成にしたのは誰だという
ぶつけようのない怒りに襲われた。
最後に写真立てから黄色い光とともに消えるリバイスの意味も分からない。はっきり言って構成以外は完ぺきといって良い出来であった。構成だけが気に入らない。そこでふと、思い返してみる。今回出てきた敵役が作中にヒーローたちを陥れる、ある作戦を企てた。

「いろんな物語も、いろんな色も、混ざり合えばやがて黒となる」(こういうニュアンスだったと思います。。)

その敵幹部の狙い通りに、ヒーローたちは、ゼンカイザーや仮面ライダーセイバーまでも、黄色い光と共に一度消滅してしまったのだ。(それを復活させるためには、一連の流れがあるのだけど。本旨とは少し離れるので割愛。)

この展開は、ひょっとして作中に出てきたヒーローたちの追体験をさせたかったのではないだろうか。と、とても現実味のある考察にたどり着いた。この映画は、スーパーヒーロー戦記と、仮面ライダーリバイスの二部構成ではなく、スーパーヒーロー戦記なのだ。敵は最後に、俺だって主役になりたかったとのたまいながらやられるが、最後には視聴者の胃袋を真っ黒にすることに成功したのではないだろうか。

私はこの構成について、「新たな挑戦」として捉えることとしました。満足度で言えば新たな挑戦ははっきり言って不要でした。ただ、毎年新たなことへ挑戦する東映。大きな満足度と、新たな挑戦の内容を少し残念に思う気持ちと、それを新たなコンセプトとして解釈する気持ちと、色々考えさせられる映画でした。誰かに共有したく、そのためにこの記事を書いてみました。何かしら誰かの何かになっていれば嬉しいです。


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