思い出補正に抱きしめられる、後ろから

シンクロニシティ・オンライン・フェスティバルを聴きながら仕事しようと思ったら、トップバッターの渋さ知らズが良すぎた。仕事どころじゃない。胸の奥からグッとくるものがあった。彼らのことを特に好きだったのは20代の頃だから、その頃のことを思い出してしまったということもあるかも知れない。

仕事場の安いモノラルイヤフォンで聴いていたのに音の悪さはほとんど気にならなかった。多分、目から入ってくる情報に補正されたんじゃないか。懐かしいメンバーはすっかり老けたし、死んでしまった者もいるし、新たに入ってきた若者もいるけれど、全体としての佇まいはほとんど変わっていない。僕の憧れたいかがわしさは健在だった。

僕もこういうことがやりたかったんだろうなあと、今になってあらためて思う。ミュージシャンになりたかったとか舞台に立ちたかったとか、そういう意味ではなくて、堂々と猥雑な、化粧のハゲかけたピエロのような陽の当たり方の話である。そしてそういう思いは完全に過去のものになったわけではないらしいと、今日わかった。

昔好きだったものばかりを見たり聴いたりして喜んでいるのは進歩を止めた懐古主義だ…とずっと思っていた。それで新たな刺激を求めて最近の若手の曲を熱心に聴いたり、芝居を観に行ったりしてきたのだ。でもなんだかんだで渋さ知らズの本田工務店のテーマとかムーンライダーズのアマチュアアカデミーとかを聴いている時の方が、興奮して脳の奥の奥が活性化されるような気がしなくもない。

結局のところそれで良かったのだとすれば、ずいぶんと余計な回り道をしてしまったものだ。いや、まだ、結論を出すには早いか。今はまだ思い出補正に後ろから抱きしめられているだけかも知れないし、スカートやフィンランズや秘密のミーニーズを聴いたのが無駄だったとも思えない。

いずれにしても渋さ知らズを聴いたことでしばらく忘れていた種類の刺激を受けたことは事実である。今はそれを認めることが大事だと思う。犬姫を聴いた時に湧き上がってくる妄想を用いて、昔できなかったことが今ならできるということもあるかも知れない。可能性は未来にばかり埋まっているものではない。それは認めても良いような気がしてきている。