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違う冬のぼくらをプレイして思った事(ネタバレ有)

ネタバレ有の内容になります。






まず、動物視点と機械視点両方プレイ済みで、3周目の追加エンディングも確認しました。

この考察は次の主張がメインです。
「この世界は機械が住む世界であり、
人間のように見える認知こそ歪んでいる」

理由1
生物が「助かりそうな死に方」と「助からない死に方」をしてる事。
コアのような部分があり、そこを直撃した場合、青い「ぼく」は「助からない」と発言している。
「助けられるかも」と言った場合は、機械視点でコードのようなものをつなぎ合わせて蘇生しているのでより「実際には機械」である事を印象付けているように感じた。

理由2
身体のコピーギミックと、身体の分離ギミックの存在。理由1に似てるけど、機械でしか成し得ないように感じた。
また、これらは動物視点だとなんかグロいオブジェになっていた。機械って、ネジとかナット、金属板や回路などのパーツが集まって出来ていると思うんだけど、これってガワを意識しなければパーツの寄せ集めになると思う。生物的な認知だと、ああなるのかも…。

理由3
山の頂上にある石像は、動物視点では同じく石像だったが、機械視点では「アンテナ」だった。
これはアンテナが機械に干渉している可能性があると考えた。認知が人間に戻る時、アンテナは赤色に発光していた。
動物側では市長が「ジュゴン」になっていた。これは動物か、人間かという違いなんだけど、機械視点は本当にアンテナ。似ても似つかない。
このアンテナは全ての機械に対して、「自分たちは人間だ」という認知の命令を出しているんじゃないかなと思った。

理由4
2週目のエンディング、ラストで砂嵐が走り、プレイヤー1の視点でも、プレイヤー2の視点でも、機械視点となった。
電車は色褪せ、主人公は機械視点の時の見た目に。
認知の干渉の外から見た、現実のような気がした。

理由5
ハルの存在。
ハルは人間視点だと、目や鼻など様々な人間の顔のパーツが合わさった、非常に醜い見た目だった。
途中で出会う狂った老人の話を思い出す。動物や人間を無差別に殺し、自分の奥さんと娘を模したものを作っていた。
機械視点で見た奥さんと娘を模したものは、色んなパーツが合わさったガラクタのようなものだったが、ハルは状況から考えるとそのうちの被害者の人間(機械)と考えられる。
3周目の追加エンディングはシンプルで、大人になって疎遠になった二人が久々に出会い、ハルに逢いに行く、というもの。
二人はハルに取り込まれ、再会を果たす。
触れることでしか意識を共有できないのって、すごく「機械」のような気がした。



全て妄想だし、公式から真実が語られることはおそらく無いでしょう。
「認知」がテーマのゲームなので、いろんな考え方が存在している事が面白いというメタ的な裏テーマがあると思います。
個人的にはとても面白いゲームでした。

最後に、製作者のところにょり様が過去に公開しているゲームのリンクを紹介して考察の〆としたいと思います。

ひとがもういない惑星の、自分を人間だと思いこんでいる機械たちの村が舞台のアドベンチャーゲームです。
ひとり生き残った子供の機械が死んだ村人たちの身体を借りて、「明日したかったこと」を代わりに行うことで、ひとりひとりを弔い、きちんとおわかれをしていきます。

Steamストアページより


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