人生とは自分をマイナス/プラスと仮定されその対になるプラス/マイナスの存在を見つける旅である-アニメおそ松さん第17話「十四松と概念」に寄せて

 私が人生を狂うきっかけになった、アニメ「おそ松さん」の1エピソード「十四松と概念」(以下、概念回)が放送されてから早4年が経とうとしています。絵が描くのが得意なオタクではないので長文解釈を記念に残そうかと思いました。この記事はマジのオタクの長文しかありません。それも結構解釈をこじらせた方向の……。でも世の中にこれだけ概念回に狂った人間がいるのだという証拠を少しでも残せられればいいな、みたいな。私は概念回が好きです。

 アニメおそ松さんにおいて、主役たる六兄弟の四男「松野一松」と五男「松野十四松」、彼らをワンセットで呼ぶ時にはファン名称で「数字松」と呼ばれます。二人だけが名前に漢数字がついているから。数字松含めコンビ名称の多くは放送前に付けられたものですがごく初期には「電池松」だか「プラマイ松」だとも呼ばれることもあったそうです。私は直接そう呼ばれているのをみたことはありませんが。確か当時pixiv百科事典だかの名称一覧に載ってた気がする。その名の通りお互いの名前の一をマイナス、十をプラスと見立てられたわけですね。(今見たらゼロ松とかもあった。これは知らなかったです)

https://dic.pixiv.net/a/数字松

 私はこの二人を推しだと捉えるようになったり関係性を気にかけ始めたのは、実はこの概念回ではなくもっと以前の回、9話「十四松の恋」からなのですが(このお話も長文オタク化する凄まじい回でなおかつ未だに大好きなのでいつか文章書けたらいいな)この「概念回」でもう完全に戻れなくなったというか、ただなんとな〜く好きだった一松と十四松という二人の男の関係性をこういう風に描いたことに放送当時「やりやがった!やりやがったアイツ!!!!!」と強烈に思ったことだけは覚えております。数多い松のエピソードの中でも、概念回だけは頭を殴られるような衝撃があった。

 一松と十四松が屋根の上で何やら会話を始めるところからこのお話は始まります。おもむろに十四松は一松に尋ねます。「一松兄さん、ぼくってなんなんだろう」 

 ぼくってなんなんだろう……?(宇宙猫)突如哲学的問いを兄に語りかける十四松。私困惑。視聴者も多分困惑。なぜ今いきなりそんな問いを……?というか、それはアニメの中の登場人物が抱いてもいい疑問なの……?

 ある種タブーだと思うんですよ。フィクションの人物が「自分の存在」を曖昧に考え出しちゃうのって。だって作られた存在の存在定義なんて如何様にも出来ちゃうんですから、如何様にも出来ちゃう側が「なんなんだろう」って喋らせるのって、出来レース以外の何物でもないじゃないですか。その答えは知ってるんですよ作ってる側は常に、多分……(急に自信がなくなるオタク)

 「十四松ってなんなんだろう」一松は弟の唐突な問いかけに曖昧に返事をしたり相槌を打ちますが、そのうちに他の人物に助けを求めてその場を逃げ出してしまいます。怖かったのかな……(私も知ってる人に突然ああいうこと言われたら怖いと思う)一松が去った後、十四松はさらに「自分の存在とはなんであるか」をより深く深く考え始めます。

「見た目が変わったら自分ではないのか?」「声が変わったら?」最終的に彼は頭だけ(⁉︎)の状態と化して街を転げていってしまいます。

「うん!これでもまだ全然ぼくだ」笑いながら転がり続ける十四松。先述し忘れましたが彼は常に笑っているキャラクターです。だからこの場面が心から楽しくて笑ってるのか、それとも何か他の感情であるのかを判断するのは非常に難しい。「じゃあこれは?」そのうち今度は「十四松」という黄色の漢字そのものになってしまいます。「これでも十四松だー!」街角を漢字の状態で歩く十四松。「電信柱になっても電信柱?」「家になっても家!」目につくものの存在すべてを彼は漢字に変えて行ってしまいます。最終的には太陽さえも。他の登場人物も漢字に変えられてしまったらしく白い背景の中で主要登場人物たちが歩く漢字になって登場してきます。ただしある一人を除いて。

 私はこれまでの一連のシーンを初見時見ていてすごく悲しかったことを覚えてます。まず、自分を構成する要素をどんどん切り離していって「これでもまだぼくだ」「これでもまだ十四松だ」って言ってる姿がなんだかものすごく痛々しいものに思えてならなかったんですよ。頭だけ残して身体が消失したり、最終的には人間の形のアイデンティティーも手放す推しが見ていてすごく辛かった。大丈夫?これ推しの自傷や自殺のメタファー見せられてない?とすら思った(あと赤塚不二夫つながりでバカボンの特定の回を思い出したりもした)このあとさらにそうなんですが、自己定義を考え抜いた末にヒステリーを起こしたようにしか当時の私は見えなかったんですよ。あれもこれも「全部いらない!」ってなってる姿が特にそう思えてならなかった。これはうがった見方ではあると思いますが。世界を構成するすべてがホワイトアウトしていく中、笑いながら十四松は言います。「なーんだ。自我とか自己認識とか存在意義とか、案外小さくてどうでもいいことなんだ」

 どうでもよくねぇーーーーーーーーー!!!!!!!

 こういうこと言わせちゃうの?よりによって十四松に?私は推しの何を見てるんだ?今まさに推しが自我とか自己認識とか存在意義を手放そうとしているとき、テレビの前のオタクは何も出来ません。十四松の「自我とか自己認識とか存在意義」を通して彼をキャラクターとして好きになったはずなのに、十四松は今それらすべてを「どうでもいいこと」と切り捨ててしまっています。どうでもよくないよ!!!だってそれって私が十四松を認知したり存在定義するのにめちゃくちゃ大事なものじゃん!!!!身勝手なオタクはただ事の終焉を見守るしか出来ません。

 画面から十四松以外何もなくなった世界を見て「ぼくももっと身軽になろう」と、自分の漢字のも消して「十四」に、最終的には漢字の「」になってしまいます。この行為自体を「身軽になる」と表現しているのがもうめちゃくちゃ怖い。

https://www.weblio.jp/content/身軽

(以下引用)
① からだの動きが軽快である・こと(さま)。 「 -に木から飛び下りる」
② 持ち物が少なく楽に行動できる・こと(さま)。 「 -な服装」
③ 義務や束縛のないこと。足手まといになるもののないこと。また、そのさま。 「 -なひとり者」
(引用終わり)

これ①の意味じゃなく③の意味だったらめちゃくちゃ怖くないですか?「十四松お前……そこまで……」ってなる。(自分の自我や肉体を「足手まとい」だと捉えてるとしたらめちゃくちゃこわいし悲しくておそろしい)

 「うん!これでもまだ十四松だ」十という黄色い一文字になった姿で十四松は笑います。そんな中、画面の左手(演劇でいう下手)から蛇のようなミミズのような動きをする紫色の一という字が現れて、十四松はそれを「一松兄さん」と呼び止めるのでした。どうやら一松らしい紫色の「一」は十四松にこう答えます。

「お前プラスみたいになってるぞ」十四松はそれに対して「うん。一松兄さんはマイナスに見える」そう答えます。

 お互いを二元論に基づいて存在定義する兄弟初めて見た。

https://ja.wikipedia.org/wiki/二元論

 これ冗談じゃなくて、例えば男女のキャラクター同士とかで定義してるのは正直結構あるじゃないですか。でも兄弟であなたはマイナス/プラス、私はプラス/マイナスって言っちゃったキャラクターは少なくとも私はこのとき初めて見ました。しかも一松と十四松は二人きりの兄弟じゃなくて六人兄弟のうちの二人なんですよ。他の兄弟はつゆ知らず、世界でたった一人だけの、自分がマイナス/プラスであるなら、あなたは自分にとってプラス/マイナスであるということを多くの人間の中や六人の中から定義しちゃった。人生に完全に自分の存在と対になる人を見つけられるのは早々ないことなんですよ。だってなくないですか?そうであったらいいなとは思うけど。

 自分がある特定の人に「あなたはマイナス/プラスみたい(に私からは見える)」と言われたときに、その存在を「それなら私からみればあなたはプラス/マイナス」だと思えることがどれだけ幸せなことか。どちらかが欠けても完全になれない存在が、すぐそばにいることがどれだけ幸福なことか。

https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=陰陽#陰陽性質表

 正直それまで怖かったのが一松が来てくれたことで私は「やった!ありがとう一松!十四松を迎えに来てくれて本当にありがとう!」とすら思ったのでここにまずかなり救われたんです。

 人生とは自分に欠けた存在を探す旅ではないかと私は思います。そのために人とのつながりを欲したり恋愛をしたりする。陰陽や二元論において男や女が完全に対である存在と定義されてるように、対になる存在は二つで初めて完璧な存在になれると捉えられてる。その対をお互いに定義させ、男と女でない、同性同士でこの表現をしたのがめちゃくちゃ偉いな……と私は思うのですが(これが数年前までなら確実にされてなかった表現だと思うし、ギャグアニメというパッケージングをしていなければ2016年という時代に茶化されずにきちんと放送できていたかどうか怪しい)ある種の革命だとすら私は思っているのですが、そうした文脈で語られてるのをあまり見たことがないので私はちょっと悲しい。兄弟同士だからそんなに深い意味ではないのでは?と言われても、いや兄弟同士だけど同性間でこの表現をできたのがめちゃくちゃ偉いし革命的なんだよ、という主張はしたい。従来なら異性間にしか許されてなかった表現だし。自分の対になる存在を必ずしも異性から選ばなければいけないということはないんだよ。同性相手にも、好きな人に「自分がマイナス/プラスならあなたはプラス/マイナス」と定義していいんだ。そういうメッセージを、私は勝手に感じ取った。私はこの解釈を、私がそう思いたかったからそう解釈したのかもしれないけど、かなりこの解釈に救われたんです。前述した「十四松の恋」の話の中で、十四松とその彼女とされる女の子の姿を目撃した途端一松は頭を強く自分で打ち付けて血を流します。まさに自傷行為。ここからは私の妄想というか解釈なんですが、彼はここで「自分は十四松とそういう存在にはなれない」と思ってしまったんじゃないかな。彼は十四松の「彼女」にはどう足掻いてもなれないじゃないですか。少なくとも彼の性自認が男性である限り。だからそれがショックだった。もっと以前の5話「エスパーニャンコ」で十四松は一松に友達をいないことを気にとり行動します。気にするなら十四松自身が友達になればいいけれど、兄弟であるから十四松と一松は友達にもなれないわけです。異性の恋人にも友人にもなれない。兄弟である以上の存在の椅子に一松が座りたいと思ったとき、相手から不意に差し出された存在定義が「マイナス」だったら?相手を「プラス」と定義してあまつさえそれが拒否や否定をされなかったら?私だったら多分泣いてしまうと思う。こんな恵まれた話がこの世にそう存在するだろうか?この話一松視点から見たらめちゃくちゃ救済の話なんですよ。彼は十四松の彼女にも友人にもなれなかったけれど、唯一かつ十四松にとって世界でたった一人の「プラスの対のマイナス」になれた。彼は十四松という男の中のかなり特異的な存在になれたし、あまつさえそれを相手から定理されたんですよ。こんな嬉しいことってあります?十四松が自分から「一松兄さんはマイナスみたいに見える」って言ってるのがめちゃくちゃ良い。十四松って何考えてるかわかんないからどこまで意図的に喋ってるのか(喋らせてるのか)微妙なんですけど、意図的ならとんだ口説き文句だよ。存在定義を悩んでいた相手から存在定義されて救われる話なので、十四松の魂の救済と同時にこれ一松もかなり十四松からの存在定義によって救われてるんですよね。存在定義をいらないって言ってた人が他者からの存在定義をされることで終焉する物語、めちゃくちゃ美しいな。これ本当におそ松さんか?はい、これもおそ松さんです。

 一松がマイナス、十四松がプラスという定義は実際ここで急に当てはめられた設定ではないのがまたいいんですよね。

http://www.neowing.co.jp/product/NEOBK-1896722?s_ssid=e478995d7794a7d15b

↑インタビュー掲載

 あと「マイナス」である一松が下手から登場して、このエピソード丸ごと位置関係や立ち位置が終始、一松が左手、十四松が右手に固定されてるのが映像表現的にめちゃくちゃ忠実で正しいと思う。ネガティブな存在は左から右に動き(登場し)、ポジティブな存在は右から左に動くんです。ここは偶然じゃなくかなり意図的な演出だと思います。終始徹底されてるので。見るときはここら辺注目して見て欲しいですね!十四松このエピソード中はマジでずっと右から左に移動するんだよ!

https://honto.jp/netstore/pd-book_03455218.html

アニメ的には「映像の原則」(富野由悠季著)にわかりやすく解説されてるけど、映画系の映像表現の本とかにも載ってるんじゃないかなー。あとググれば結構出てくる。

 「結局のところぼくたちってなんなんだろうね」「さあな。てかこの話がなんなんだよ」「たしかに!」そんな会話のあと、「プラス」「マイナス」である二人が結合すると、ゼロになり画面は真っ白のまま何もなくなってしまいます。

 なんか勢いのままに概念回について語ったら雑多な文章になってしまった。私が概念回を四年経った今でも、人生に影響を与えられたくらいずっと大好きなのは私にとっても救いだったからなのかなー。誰にとっても創作物って救いになり得るけど。「十四松と概念」、もっと語られてもいいのに。おそ松さんはすげえアニメですよ。マジで。

https://www.hmv.co.jp/artist_%E3%81%8A%E3%81%9D%E6%9D%BE%E3%81%95%E3%82%93_000000000661685/item_%E3%81%8A%E3%81%9D%E6%9D%BE%E3%81%95%E3%82%93-%E7%AC%AC%E5%85%AD%E6%9D%BE_6763626


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