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スポーツ観戦が苦手なわたしのコンフォートゾーン

スポーツ観戦って…好きですか?
世の中には多種多様なスポーツがあるけれど
【観戦する】というのは
スポーツ選手や、スポーツ自体の
勝敗を見守ったり 肉体美に惚れたり
それまでの積み重ねに感動したり…
まあ、いろいろな感動や興奮に
自分の感情を激しく揺り動かされること、
なんじゃないかと思うのですが

それが、全く理解できないんですよ…

フィールドで活躍する選手を見るたびに
「なぜ、わたしはあそこにいないのか」
という思いがムクムクと湧き出て
(大相撲だったとしても、です。笑笑)
その《活躍している人》と《自分》との間にある‘違い’を探して
「ああ、やっぱりわたしは努力が足りない」と
わかりきっている結論に
たどり着いて、安堵、そしてまた日常…
の繰り返しが始まる訳です。

落胆→諦め→言い訳→日常→…を
何遍も飽きずに繰り返し(癖だからね。無意識にしてた)
わたしのホメオスタシスの鉄壁にぬくぬくと安穏としていたわけです。

その癖にも
メリットデメリットがあるんじゃないか…と
毎度癖を発動してしまう私を俯瞰してみると
【超一流のフィールドにたってこそ一人前】
【頑張り続けてこそ、苦しんだストーリーがあってこそ、感動を呼ぶ】
【生半可な思いじゃ認められない】
みたいな思いこみがあり。
結果を出さないことで
感動もしないけれど
がっかりもしない。
目立つ人は、がっかりや、批判されることも
つきもの。
その感情の揺らぎと、人格否定とが
ごちゃごちゃになっていたわたしは
《感動を呼ぶかもしれないが失敗を非難されるかもしれない→認められない私→生きてる価値無し》がめでたく成立し、
頑張ると命に関わる!
頑張らない!目立たない!
それが安心!コンフォートゾーン!

そんな反射でスポーツ観戦していたんですよ…
そりゃ、楽しくない。
純粋に、選手に声援を送ることなんてできない。

でも…スポーツを観ながら
「なぜ、あの場にいるのがわたしじゃないの?」という思いは、
これ以上でも以下にもなりたくない、というコンフォートゾーンにいたい理由でもあり
同時に
「本当はわたしも超一流になって輝きたい!」という純粋な思いでもある。

どうする?どうしたいの?

スポーツの秋。そんな問いを投げ掛け続ける秋にしよう。










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