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新発田の白壁兵舎とその周辺がすごかった、という話

先日、初めて新発田市に泊まった。
宿に入った後でGoogleMapで周辺をなんとなく眺めていたら「白壁兵舎広報資料館」という自衛隊の資料館があることを知った。自衛隊の資料館は事前予約が必要なケースも多いが、飛び込みでも見学できるとのことだったので宿を出て横浜に戻る前に立ち寄ることとした。

駐屯地併設の施設だし30分くらいで回れるよね、と思っていたらいい意味で期待が裏切られ、充実した展示をがっつり1時間以上見学してしまった。
さらに、資料館開館前についてしまったので周辺をふらふらしていたら出会った公園からも濃厚な歴史が感じられた。
ざっくり言えば本稿の内容はそんな具合である。


1.白壁兵舎広報資料館

白壁兵舎広報資料館は新発田城址にあり、旧陸軍草創期に東京鎮台(!)の歩兵第3大隊の兵舎として建てられた木造2階建ての兵舎だ(師団制の前というあたりでもう歴史がすごい)。
その後、同地に編成された陸軍歩兵第16聯隊に引き継がれた兵舎は保安隊を経て陸上自衛隊でも利用された。
日本国内に現存する兵舎としては最も古いもので、かつては映画「八甲田山」のロケに使われたこともあるのだとか。
近年になって駐屯地の外縁部に移築され、広報館として一般公開された。

白壁兵舎の入り口周辺

2階建の兵舎のうち、2階部分をまるまる使って新発田城の誕生から戦前にかけての展示、1階部分の1/3ほどが戦後の展示にあてられており(1階の残りは資料館の事務室や来館者用トイレ、売店など)、展示の物量はかなり多い。ついつい目を惹かれる文字資料も結構ある。見るのに時間がかかるわけである。
展示はフラッシュを焚かなけれは撮影可。個人的にぐっと来た展示を以下に写真を用いつつ紹介する。

旧軍関係展示より

展示のそちこちに関係者から寄贈された実物の軍装が展示されている。勲章などを取り付けるための糸が当時のまま残されていたり、非常に興味深かった。こうしたディテールに引っかかり始めると際限なく時間が吸い取られて行く。

左は四五式軍衣、右は九八式軍衣のそれぞれ左胸部。なお右の九八式について現地ではふーんと流してしまったがこの記事を書くためにあらためて写真を見直したところ、九八式の襟には聯隊番号をつけないのでは?というのと(伊達でつけていた可能性ももちろんあると思うが)、仮に23聯隊にいた方のものだとするとなぜ都城(宮崎)の聯隊のものが?と、後になって色々不思議になる展示物ではあった。(追記 Twitterにて教えていただいたところによれば、襟の23は23聯隊ではなく16聯隊の補充部隊であった東部23部隊をしめすのではないかとのこと。)

オフィシャルな操典の展示はもちろんのこと、部隊内部で独自に作成されていたマニュアル類がしれっと置いてあるのも油断ならない。下に写真で紹介しているのは特に中身が気になった2冊。左のレシピ(だと思う)はどんなメニューが載っているのだろう。こういう展示にもどんどん時間を奪われていく(嬉しい)。

左「炊爨及調理ニ關スル参考表」、右「輜重兵教育計画ノ参考綴」

戦前の制度では軍人が結婚するにあたっては上官の許可が必要だった(どのくらい上の許可が必要であったかは当人の階級による)。こうした当時の生活に根ざした資料が展示されているのも非常に興味深い。下に写真で紹介する書類など、あちこちに押されているハンコに想いを馳せるだけでご飯が進む。

明治37年に提出された結婚願

自衛隊関係展示より

建屋の一階に降りると自衛隊関係の展示。制服の展示にはじまり、30普連の設立から、連隊が関わった事績(災害派遣やオリンピック応援、イラク派遣など)が中心。こちらはさすがに紙モノはほとんどない。
そんな展示の最奥部にそっとあるのが部隊識別帽の展示。幹部を示すモールが部隊によって違ったりする、という事例が特に説明もなく実例として展示されている。

部隊識別帽の展示より。左は125地区警務隊新発田派遣隊、右は第12広報支援隊第2整備中隊第3普通科直接支援隊。いずれも金モールであることから幹部用と思われる

これらの識別帽が展示されているガラスケース前の床が板張りではなくガラス?貼りとされていて基礎部分の構造が見られるような形となっている。
現物周辺にはとくに説明はないように思われたが、これは2Fにある白壁兵舎の建築的な特徴の紹介の続きとなっている。

2.白壁兵舎広報資料館、の売店

展示を見終わったあとにはミュージアムショップがある。
お土産アイテム(自衛隊クッキーなど)や迷彩柄のバッグなどがメインを占める売り場の一角に、弾帯止やブーツバンドのような地味目の便利(?)アイテムが並んでおり、久々に見かけたこともあってつい買ってしまった。
聞くにこの売店、本州で弾帯止を売っている数少ない売店の一つであるらしい。今時、弾帯止を使うような場面が今ひとつ思いつかないのだが。(*)

つい買ってしまったアイレット(ハトメ)付弾帯止。ハトメなしの弾帯止も売られていた

*弾帯止:OD作業服や旧迷彩作業服では上衣の裾はパンツの中に入れる統制だったため、弾帯(装備ベルト)とパンツベルトを弾帯止で結びつけることで弾帯を動かないようにするという工夫が行われていた。迷彩2型(いわゆる新迷彩)以降は上衣の裾はパンツに入れないように変わったため、弾帯止の出番は基本的にはなくなった。近年でもMOLLEウェビングがあるポーチ類をベルトポーチとして使うために用いる例もあるようだ。

3.新発田市西公園

ここまで紹介してきた白壁兵舎広報資料館の開館時間は午前9時である。
筆者はそのだいぶ前に現地近くまでたどり着いてしまい、新発田城址のなかにも入れず(城址の開門も午前9時)、さてどうしたものかと付近をふらふらしていたときに新発田駐屯地正門のちょうど向かいにある新発田市西公園にお邪魔した。

新発田市西公園の入り口付近から慰霊碑群を望む。かつては「第一號新発田公園」という名前だったらしい。

この公園、もとは歩兵16聯隊の衛戍地の一部だったという来歴があり、園内には衛戍地だった当時に建てられた旧陸軍歩兵16聯隊に関する顕彰碑や、戦後あらたに建てられた慰霊碑などが集中している。

公園の入口からもひときわ目を引く剣型の碑は越佐招魂碑(このひときわユニークなモニュメントが気になって公園に入ったとも言える)。明治31年に完成したもので、日清戦争の戦没者を祀ったもの。米軍進駐にあたっても破壊を免れ、建てられてから今に至るまでこの場所にあるとのことであった。

金色に輝くパゴダは戦後に建てられたビルマ戦線での戦没者の慰霊碑。(16聯隊はビルマ方面軍直轄部隊のひとつとしてイラワジ河の戦いなどに参加している)

さらに右側には日露戦役忠霊塔、合同忠霊塔、シベリア出兵時の戦没者・病没者の残骨灰埋葬地の碑、越佐戦没者納骨堂、軍旗奉焼の碑、ガダルカナル島戦没者慰霊碑などが並び、16聯隊の戦歴の激しさを物語る(この段落で紹介しているものでは軍旗奉焼の碑、ガダルカナル島戦没者慰霊碑の2つが戦後建てられたもの。戦前からある碑と納骨堂は越佐招魂碑と同じく米軍の進駐に際しても破壊を免れ、ずっと同じ場所にある)。

公園内に建つ慰霊碑の一部。写真左から「日露戦役忠霊塔」、「西比利亜出征戦病没者残骨灰埋葬之地」の碑、「合同忠霊塔」(満州事変以降の戦没者を慰霊するために建てられたもの)
越佐戦没者納骨堂。手狭になった(!)五十公野(いみじの)陸軍墓地の代わりに戦没者の遺骨を納める施設として昭和19年〜20年頃に完成したようである。内部には現在も約14600柱の遺骨が納められている。

4.結びに変えて

江戸時代の城址に旧軍時代の陸軍の部隊が置かれた例は多いが(大阪城址の第4師団司令部、佐倉城址の歩兵第2聯隊などが有名な例だろうか)、戦後も引き続き城址に自衛隊の部隊が置かれる例はあまり多くない。
新発田城は戦国時代から現代まで連綿と軍事拠点でありつづけているという意味で稀有な存在といえるだろう。
資料館と公園にあった碑から、その歴史の一端を感じることができた。

時間の都合で城址の内部や他の博物館等は見ることができていないのだが、機会があれば再訪してまた色々と見学したいものだ。

新発田城址、表門近くにあった看板。三階櫓は城址のなかでも駐屯地寄りの位置にある高い建物とあって、保安上の観点から立ち入りができないものと思われる。城址ながら現役の軍事施設らしい緊張感があるのが新鮮である。

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