東条英機
日本でもまれな人物である。考え方によれば国家社会主義の犠牲であったのかもしれない。
太平洋戦争に関して、東条英機は全く関与していなかった。山本五六をはじめとした海軍が真珠湾奇襲攻撃をかけたことで太平洋戦争が勃発した。海軍は日露戦争でのバルッチック艦隊との戦い以来、「戦争を知らない日本海軍」であった。
これに対して陸軍は中国大陸で常に戦火を交えていた。すなわち陸軍は戦争を熟知していたのである。
私の父は今でいう、商業高校卒であった。学歴はない。そして九州の都城で一介の工場労働者として陸軍の航空機(おそらく飛燕であったのではないかと思う)。
ある時、東条英機が一介の工場労働者である私の父に聞いた。
「桑原君、生産力、資源力に劣る日本はアメリカと戦うにはどうしたらよいか。」
私の父は言った。
海軍が真珠湾奇襲攻撃で否応なくアメリカと戦うことになった以上、陸軍は何ともできない。このことを東条英機は憂慮していた。しかし、陸軍が好むと好まざるには無関係に日本はアメリカに宣戦布告したのである。それも真珠湾奇襲攻撃という汚いやり方で。今でいう「テロ」である。
「資源のない日本が、資源が豊富なアメリカと戦うにはどうしたらいいのだろう」
一介の、今でいう高卒の工場労働者に東条英機は優しく聞いた。私の父は答えた。
「都城の陸軍基地には多くの故障した航空機がいっぱいあります。ある飛行機は翼が破れ、またある飛行機はエンジンが壊れています。これらの飛行機を一台に回収したらどうでしょう。10台の壊れた飛行機で、新たに一台の完全な飛行機生まれるのです」
東条英機は私の父に言った。
「桑原君は良いことを言ったね。」
私の父は東条英機のことを「東条さん」と呼んでいた。
後年、東京で極東軍事裁判が行われた。私の父は言った。
「あんないい加減な裁判はない」
当時、ニュルンベルク裁判で第2次世界大戦を指導した国家社会主義者はすべて処刑されていた。当然、昭和天皇にまで及ぶはずであった。しかし、昭和天皇は処刑されなかった。
どうして昭和天皇は太平洋戦争の戦犯にはならなかったのだろう。
これには社会的状況と東条英機の状況がある。社会的状況は別の機会に述べる。
東条英機は天皇を守るために一切の責任を負ったのである。
極東軍事裁判で、右翼の理論的支柱である「大川周明」が東条英機の頭を叩いた。東条英機は叩かれた頭をさすりながら笑っていた。
東条英機の家族は、「国賊」とののしられながら、ひっそりと東京を去った。
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