追悼:デニー・レイン
【スピリチュアル・ビートルズ】ウィングスでポール・マッカートニーの右腕として活躍したデニー・レインが2023年12月5日、亡くなった。79歳だった。新型コロナの後遺症によると伝えられる。
最近、デニーの体調悪化が伝えられ、ファンに応援メッセージを送ってほしいとの要望が伝えられていたところだった。
ポールはSNSを通じて追悼メッセージを発表。「元のバンドメイトであるデニー・レイン死去のニュースに驚いている。ビートルズがムーディー・ブルースとツアーをした初期の頃からの、デニーとの親密な思い出がたくさんある。ぼくらの2つのバンドは互いに尊敬し、多くの楽しみを共有した」。
「デニーは最初からウィングスに加わった。彼は素晴らしいボーカリストでありギタープレイヤーだった。一番有名なパフォーマンスはおそらく「Go Now」でしょう。ベッシー・バンクスの古い歌で、彼は見事に歌いあげたものです。デニーとぼくは何曲か一緒に書きました。その中で一番成功したのは「Mull of Kintyre」で70年代に大ヒットしました」。
ムーディー・ブルースのオリジナルメンバーとしても知られるデニーは 1971年、ウィングス創設ととも参加。ギターとボーカルを担当。特筆すべきは、77年の「Mull of Kintyre(夢の旅人)」でのポールと共作だ。
スコットランドのキンタイヤ半島を歌ったこの作品はスコットランドの小さなスタジオで録音された。バグパイプをフューチャーしたこの曲はビートルが持っていた予約売り上げ枚数記録をおよそ15年ぶりに更新した。
ただ、ポールが自分の楽曲を解説する「The Lyrics」のこの作品の項ではデニーの貢献について触れられていない。
デニーは1944年、イギリスはバーミンガムに生まれた。幼くして音楽が大好きだった。1962年、デニー・レイン&ディプロマッツを結成し、演奏活動を地元で開始。64年に解散すると、ムーディー・ブルースを創設、一時はイギリスを代表するグループとなる。
デニーは67年に脱退。それからいくつかのグループでの活動を経て、旧知のポールに誘われて、ウィングスに参加した。
「Crossbeat」掲載のインタビュー記事によると、リンダは「ニューヨークでムーディー・ブルースを聴きながら、レインに会いたくてたまらなかった若かりし頃を思い出していたが、まさか自分がレインとともにバンドのメンバーになるとは想像もしていなかった」。
「「ニューヨークでムーディー・ブルースのファースト・アルバムを持っていたのは、私しかいなかったんじゃない?」、そう言って、リンダは笑った」と同誌のウィングス特集(2014)には書かれていた。
ウィングスのデビュー・アルバム『Wild Life』、2枚目の『Red Rose Speedway』では単独ボーカルを任されなかったが、73年のシングル「Live and Let die」のB面「I lie around」ではデニーがボーカルを務める。
同年リリースされる名作『Band on the run』はポールと妻リンダそしてデニーの3人でナイジェリアの首都ラゴスで制作された。このアルバムは世界中のチャートを席巻した。75年の『Venus and Mars』では「Spirits of Ancient Egypt」のリードボーカルを任された。
翌76年発売の『Wings at the Speed of Sound』においては「Time to hide」を歌った。そのヒット・アルバム3枚を引っ提げてウィングスが望んだ北米ツアーでデニーは「Go now」やサイモン&ガーファンクルの「Richard Cory」などを披露した。
これらはライブ盤『Wings over America』で聞くことが出来る。
78年の『London Town』、79年の『Back to the Egg』を経て、81年にウィングスが実質的に解散するに至るまで、ポールとリンダをのぞいてはデニーが唯一在籍し続け、ウィングスの屋台骨を支えた。
80年1月にポールが公演のために来日したが大麻所持の現行犯で逮捕された後、デニーは自らのソロアルバムのために日本を離れて交渉に臨んだとされ、これがポールの怒りを買ったとの話も伝えられたことがあった。
この時のアルバムは『Japanese Tears』というタイトルでのちに発売された。タイトル曲は日本あるいは中国的色合いが濃いナンバーだった。このアルバムにはウィングスが初期にライブで演奏していたデニーの「Say you don't mind」と「I would only smile」が収められている。
デニーのソロ・アルバムとしてはすでに、『AHH LAINE!』と、ポールがプロデュースし全面的に協力した『Holly Days』(1972)があった。このアルバムで使われた写真はリンダの撮影によるもので、ポールと同じくバディ・ホリーのファンらしく「It’s so easy」などを取り上げた。
ウィングス解散後は、各地のビートルズ・イベントに出演するなど活動を続けた。一時、元妻のジョジョによる暴露話で苦境に立たされたこともあった。金銭面でピンチとなり、デニーは「Mull of Kintyre」の権利を売り払ってしまったとの報道もなされていた。
2022年に新型コロナに感染し、その後も後遺症に苦しみ、間接性肺疾患でこの世を去った。闘病中の2023年9月、現在の妻エリザベスがデニーへの支援を呼びかけ、GoFundMeを立ち上げていた。
エリザベスは「私のダーリンは今朝早く静かに旅立ちました。私はベッドのわきでデニーの手を握って彼の好きなクリスマスソングをこの数週間、歌いました。そしてICUに入ってからもそうしていたのです」。
「私もデニーも回復を信じ、リハビリに戻って、やがて自宅に帰れると信じていました。しかし不運なことに、間接性肺疾患は予測不能でしつこかったのです。デニーの肺を弱らせ、ダメージを与えてしまいました」。
「デニーは来る日も来る日も闘い続けました。デニーは強くて勇敢でした。決して愚痴をこぼしませんでした。彼はただ、私とペットの猫チャーリーと一緒に自宅で、ジプシー・ギターを弾きたがっていました」。