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ローカル紙経営への道

 全国紙、ブロック紙、地方紙、そしてその先にローカル紙。その一つが十日町新聞。新潟県十日町を中心とする週刊紙で現在発行部数は6000部。山内正胤(やまのうち・まさたね)会長に話を聞いた。
 山内さんの祖父・山内内蔵輔さんが新聞を創刊したのは明治41年。122年前のこと。日本橋で活版印刷を学んで故郷に戻って新聞業に乗り出した。正胤さんは3代目。生まれながら跡を継ぐことが約束されていた。

十日町新聞社社屋


 早稲田大学法学部を卒業。東京で武者修行をするようにいわれ、まずはベースボールマガジン社に勤めた。正胤さんの父・正豊さんとベースボールマガジン社の池田恒雄社長が同じ新潟出身だということ、早稲田の卒業生だという縁からのことだった。しかし、1年ほどして暗雲が立ち込める。
 池田社長が手掛けたエルタミージュ美術館の美術出版事業に失敗。会社更生法の適用を受けることになった。経営が傾くなかで、正胤さんは「リストラ適用第1号」になってしまい、「十日町に帰りなさい」といわれた。
 「私がこのまま帰れないというと、社長はその場でどこかに電話をして、光文社の「女性自身」の編集部に無理やり押し込んでくれました」。女性自身では児玉隆也さんのもとで働いた。児玉さんは三島由紀夫のブレーンだといわれ、のちにガンにかかって、その闘病記がベストセラーになった。

児玉隆也さん


 「児玉さんはとても厳しかった。原稿は何度も何度も書き直しさせられた。でも児玉さんのもとで働けたことで今の自分があると思っています」と山内正胤さんは振り返った。だが、厳しいだけではない生活だった。
 五味康介や川上宗君といった小説家とつきあった。主に担当したのは社会事件もの。それは地方新聞に戻った時に役立つだろうからということだった。芸能レポーターになる須藤甚一郎さんは仕事仲間だった。

川上宗君さん


 若い頃にぜいたくな思いをさせてもらったと正胤さん。当時大卒の初任給が2万円のころ、女性自身では6万円貰っていた。そのうえ、タクシーは乗り放題だった。女性にも不自由しなかったという。
 飲みに繰り出すことも日常で、六本木、青山、新宿などを飲み歩いた。そして、渋谷と新宿のバーで当時で60万円、いまの価値で200-300万円くらいの借金を作ってしまったのだ。
 「親父が田舎に帰って来いと言ったけれど、私はそれを返すまでは帰れないというと、親父が全額返済してくれたのです。だから帰ってこいということでした」。それで十日町に帰った正胤さん。
 当時の十日町で車を持っている人はまずいなかったという。正胤さんはすぐに買ってもらった。ブルースカイ。当時は着物産業関係で若い女性が多くいた。そんなことから、東京でも地元でも女性に不自由しなかったという。
 昨年、父の跡を継いで会長に就任。今年は120周年記念の会を開いた。
 十日町は女子レスリング発祥の地といわれる。そのため吉田沙保里、伊調馨などトップ選手たちが無名時代から正胤さんは付き合っている。

 ワイン繋がりで女優の川島なお美さんとも交流があった。彼女は軽井沢に住んでいて、ご主人は畑をやっていて野菜を育てていた。


 十日町は着物と雪でも有名な街だ。着物は昭和50年頃には売り上げが800億円あって200社くらいあった。しかし今では40社程度だ。激減しているが、成人式用の製品だけが頑張っているという。
 積雪は人口5万人レベルでは日本一どころか世界一だという。ただスキーもボードも客が激減しているという。雪質がよい苗場などにみんな行ってしまった。十日町は平らで雪質もそういうところにかなわないとか。

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