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ジョンとデヴィッド・ボウイ

 【スピリチュアル・ビートルズ】ポップ・アイコンともいえるジョン・レノンとデヴィッド・ボウイ。二人は目立たなかったものの、1970年代半ばから交友を持っていた。そして、二人は名声についてまさに彼らがどう思っているかを歌にした「フェイム」という作品を共作する。
 二人は女優エリザベス・テイラーの紹介で出会ったという。場所は彼女が開いたロサンゼルスのパーティだった。同じく英国出身でロックンロール世代だったにもかかわらず、ボウイはナーバスだった。ボウイはジョンのことを深く敬愛していたからだ。
 ジョンがやって来ていることを知っていたボウイは「何を話そう、バカにされるから、ビートルズの話だけはしないようにしないと」と思ったという(ボウイが名誉博士号を贈られたバークリー音楽大学の99年の卒業式で行ったスピーチによる)。
 ジョンが「やあ、デイブ」と話しかけてきたという。それに対してボウイは「あなたが作ったものは何でも持っていますよ。ビートルズ以外ですけど」と言ったのだという。
 こうして知り合った二人。だが、ボウイは敬愛していたジョンを「畏怖」するような気持ちも持っていた。
 ジョンについてボウイは次のように語っていたー「彼はありとあらゆる面でぼくを形作っている。ポップミュージックの構造のイロハや、どうやって他のアート分野から要素を取り入れるか、時にそれは目を見張るほど美しく、力強く、物珍しさすらも取り込んでいたのだ」。
 そしてボウイはジョンのユーモアのセンスを何よりも愛していた。
 ボウイとジョンが次に会ったのは、ボウイが74年夏から取り組んでいたアルバム『ヤング・アメリカンズ』の制作中だった。
 二人は75年初めになって、ニューヨークのホテルで会った。神経質になっていたボウイは、同アルバムのプロデューサーの一人だったトニー・ヴィスコンティに一緒に行ってくれるように頼んだという。
 そのヴィスコンティが回想するところによると、彼が二人のいるホテルに着いてみても「それから約2時間、ジョンとデヴィッドは話をしなかった。その代わり、デヴィッドは床に座り、紙に木炭を使ってスケッチをしていた。彼は完全にジョンを無視していた」(2021年1月8日英「ガーディアン」電子版)。
 そして2時間ほどが経つと、ようやくジョンが口を開いた。「その紙を裂いて何枚かくれないか。君のことを書きたいんだ」。
 ボウイは「良いアイデアだ」と答えた。
 ジョンとボウイは互いのことを描いて、完成した絵を交換すると二人で笑いあった。ヴィスコンティによれば「その瞬間、二人の素晴らしい友情が生まれたのだ」という。


 それから一週間後、ボウイはジョンに電話をかけ、ジョンにビートルズ時代の作品「アクロス・ザ・ユニバース」をカバーするので一緒にプレイしてくれないかと誘ったのだ。
 そしてスタジオで二人のコラボ曲も生まれることになる。
 そのコラボ作品「フェイム」はボウイのバンドのカルロス・アルマ―がザ・フレアーズというグループの曲「フット・ストンピン」を参考にして作ったリフがもとになった。
 CD『ヤング・アメリカンズ』の赤岩和美氏のライナーノーツによると、ミッドナイト・セッションでカルロスの弾くギターリフに合わせてボウイがリズムをとると、ジョンが「Eiie」と歌い始め、ボウイの「Are you singing fame?」の問いかけに「OK」と答え、3人の共作「フェイム」が生まれることになったのだという。
 ジョンはギターを弾くとともに高音でバックボーカルを務めた。
 音楽情報サイト「ソングファクツ」によると、ボウイは「これはまさに有名になるということがどういうことかについての歌だ」と述べていた。
 「もちろん、名声そのものはあなたにレストランで良い席につけるという以上のことは何も与えてくれないのだ」。
 ファンキーな仕上がりとなった「フェイム」は米ビルボード誌のシングルチャートで75年9月から10月にかけて1位になった。ボウイにとって初の全米ナンバーワンとなった。
 75年春にも二人は会っていた。第17回グラミー賞の発表・授賞式でのバックステージに二人はいた。ボウイがソウルの女王アレサ・フランクリンに賞を渡すことになっていた。
 授賞式が始まる前に緊張していたボウイはジョンに言った「アメリカはぼくにこんなことをさせてくれるとは思っていなかったよ」と。
 そして授賞式で封筒を開けてアレサの名前を読み上げたボウイ。アレサはトロフィーを受け取ると「ありがとう。私はデヴィッド・ボウイにキスしたいほど幸せです」とジョークを飛ばした。
 アレサが退場すると、舞台裏でジョンはボウイを抱きしめてキスをする素振りをしながら言った「ほらデイブ、アメリカは君を愛してくれているよ」。

香港


 さらに70年代終わり、ボウイとジョンは香港で会った。ボウイが休暇で香港に行った時、当時「主夫」となっていたジョンと裏通りを歩いていると子どもが寄って来て「ジョン・レノンですか?」と聞いてきたという。
 ジョンはそれに答えて「違うよ、それくらい金持ちだったらよかったと思うけど」。その子どもは「ごめんなさい、人違いでした」と言って走り去ったという。
 ボウイは言う「ぼくは今まで聞いたセリフの中で一番役立つものだなって思ったよ」。
 ニューヨークの戻って2か月後、ソーホーで「デヴィッド・ボウイ?」って聞かれた時、ボウイは答えた「違うよ、それくらい金持ちだったらよかったと思うけれど」。
 するとその声の主は何とジョンだった。「嘘つけ、ぼくくらい金持ちだったらと思っているんだろう」。
 ジョンとボウイ、二人とももうこの世にいない。
 ジョンの妻オノ・ヨーコはツイッターに次のように書いたことがあった「ジョンとデヴィッドは互いを尊敬していました。二人は知性、才能が釣り合っていました。ジョンと私には友人がほとんどいなかったので、デヴィッドを家族のように近い存在だと感じていました」。

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