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ポール・アンカ日本公演

 懐メロ歌手の営業かと思っていた。失礼しました。1950年代後半から60年代前半を席巻したシンガー・ソングライターが、それから60年以上が経った今日も健在であることを見せつけてくれた。
 レジェンドでありながら、その名声に安住することなく、常にエンターテイナーとして、またボーカリストとして、その実力を十二分に発揮することが出来る本物の仕事を見せてくれた素晴らしいショーだった。
 だが、本人はライブの最中に言った。「これは仕事じゃないよ」。
 「ポール・アンカ グレイテスト・ヒッツ ヒズ・ウェイ」と題された日本公演が、2023年5月23日(火)に東京ドームシティホールで行われたのに足を運んだ。彼のおよそ15年ぶりの日本公演はこの一夜限り。
 まず初っ端から会場を興奮のるつぼに陥れた。「君はわが運命」のイントロが流れると、アリーナ席後方にスポットライトが当たり、そこにアンカが登場して、歌い始めたのだ。どよめきが起こった。
 通路を前へと進む。途中、ファンたちとハグしたり、握手したり、頬ずりしたりしながら、歌い続ける。ステージに上がるのかと思いきや、反対側の通路に移動し、こちらでもファンたちと触れ合った。
 2曲目はアンカの代表曲「ダイアナ」。皆ノリノリで、踊り出す人がいたほど。彼の実質的なデビュー曲で、いきなり米ヒット・チャートの1位を獲得、アンカはスターダムにのし上がった。1957年のことだ。アンカの弟のベビーシッターへの片思いを歌った曲だという。

 「マイ・ホーム・タウン」、「クレイジー・ラブ」、「あなたの肩に頬うめて」、「アダムとイヴの物語」といったアンカの名刺代わりのオールディーズが披露されると年配のファンが目立つ会場がとりわけ盛り上がった。
 これらの曲は1950年代から60年代初めの「アメリカが自信を持っていた時代」を思い起こさせるという。ベトナム戦争はまだ泥沼化していなかった。冷戦の中の「熱い戦」である朝鮮戦争はあったが、経済的には特需が生まれて、アメリカの物質的な繁栄を後押ししたのである。
 さてアンカのライブに戻る。アンカが自分の書いた歌ばかりではなく、フランク・シナトラの曲なども披露された。
 さらには、自作曲だが他のアーチストに提供された楽曲も交えながらの進行だった。トム・ジョーンズに歌われた「シーズ・ア・レイディ」、バディ・ホリーに贈った「イット・ダズント・マター・エニモア」などだ。
 日本のファンへの粋な計らいとしては、アンカが出演したニッカ・ウィスキーのテレビCMのために作った曲「スーパー・ナウ」を歌ったことだ。それもウィスキーグラスを時折、片手に持ちながら。
 そして本編最後は「マイ・ウェイ」。ピアノをバックに歌い上げる。この曲は「フランク・シナトラが約2年のブランクを経て、1973年にカムバックする時のために頼まれて書いた作品」(アンカ)だ。
 これは日本でも大変人気がある曲だ。会社のおじさん上司が「自分のキャリアを(自己満ながら)万感を込めて振り返り」、カラオケで熱唱している姿はこの国の「夜の酒場の定番」となってきた。
 「ダイアナ」が再び歌われて、「ニューヨーク・ニューヨーク」も登場した。この曲はフランク・シナトラの代表曲として知られている。


 アンカはニール・セダカらとともに日本の音楽界にも大きな影響を与えた。彼らの曲がアメリカでヒットするや、日本の歌手も日本語でカバーしたのだ。山下敬二郎の「ダイアナ」が特に知られている。
 一夜限りのアンカの日本公演だった。とにかく、アンカは若い。よく動いた。笑顔を絶やさなかった。エンターテイナーとはかくあるべしという見本。長年のキャリアは伊達じゃない。だが、それはシンガー・ソングライターとしての実力に裏打ちされていてこそ。
 そんな感想を持ちながら、大満足で家路についた。





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