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ヒーローの定義と、ライダーへの想い〜シン・仮面ライダー感想文〜

かんなん-しんく【艱難辛苦】
非常な困難にあって苦しみ悩むこと。▽「艱」「難」はともにつらい、苦しい、悩むの意。「辛苦」はつらく苦しいこと。つらい目にあって悩むこと。

今作の主人公、本郷猛/第1バッタオーグ(仮面ライダー)を表す言葉があるとしたらまさにこれだと思う。

そしてそれは、シン・仮面ライダーが完成に辿り着くまでに恐らく幾度となく辿った道であり、僕が仮面ライダーというコンテンツのファンをやっていくにあたって経験してきた事でもある。

それらも踏まえつつ、今作への想いを余す事なく語っていこうと思う。

2021年4月3日、情報解禁。

仮面ライダー50周年記念会見では3つの大きな製作発表があると予告されていた。1つは仮面ライダーWの続編であり、漫画である「風都探偵」のアニメ化。もう1つは仮面ライダーBLACKのリブートである「仮面ライダーBLACK SUN」。そして50年前(当時。1971年の事を指す)の第1話放送開始と同時刻である午後7時半に最後の情報解禁である「シン・仮面ライダー」が発表された。

正直な事を話すと、これよりもっと前に「シン・仮面ライダー」というタイトルのリーク情報はチラッと知っていたので、恐らくこの事だろうなという予想はついていた。しかし、良くも悪くも東映にありがちな流行り物に便乗するスタイルだと思ってて、本当に庵野秀明が製作に関わって「シン・ゴジラ」の仮面ライダー版が作られる、とは微塵も思ってなかった。

だからこそ、「映倫」マークの出方が明らかにヱヴァ新劇場版のそれだったので、完全にそこで庵野秀明を感知し、フライングで涙が流れたのである。

この時、どれだけ嬉しかったか。僕は仮面ライダーが内輪向けの方向にどんどんなってしまってるのが心の何処かで悔しさを噛み締めてたし、「日本の特撮は映像がショボいからどうしても観る気にならない」と思ってる人も少なからず知ってて、アメコミ映画にスケール面でどうしても劣る事をずっと我慢しながら向き合い続けてきた。

また、僕自身映画ヲタクでもあり、同時に特撮ヲタクでもある。そんな自分にとって「製作時間をたっぷりかけて、本気で作った大作映画としての仮面ライダー」というものをずっと観たいと思ってた。IMAX大画面に力強く炸裂するライダーキック。それが観れたらどんなに楽しいだろう、でも無理だろうな。ずっとそう思ってた。
シン・ゴジラの時に空前の大ヒットの余波で「庵野はゴジラでこれだけやれたんだから、ウルトラもライダーも作ってしまえばいい」という冗談がよく飛び交ってたが、その時、既に水面下で両方ともプロジェクトが進んでたのだ。恐ろしい事である。

それから2年間。2021年9月末には主演2人とサイクロン号の解禁。また、1971年当時のオープニング映像を可能な限り模倣したプロモーション映像も解禁された。(因みにこの再現度の恐ろしさたるや、映像終盤でペダルを踏む回数と踏むタイミングも1971年当時のOP映像と全く同じで笑いさえ込み上げてくる)


シン・ウルトラマン公開日である2022年5月13日には特報映像も解禁され、初代ライダー最終話放送日である2023年2月10日には本予告映像も解禁。公開日も同時に解禁され、あと何日…と指を折り気持ちを盛大に高めて2023年3月17日、午後18時00分。本作鑑賞に臨んだ。

震えあがった冒頭、困惑、戦慄。

完全にシン・ウルトラマンと同様のノリでファンサービス精神旺盛に開幕すると(勝手に)思い込んでたシン・仮面ライダーだったが、実際に公開された映像は予想とは大きく異なるものだった。

初っ端からSHOCKERのクモオーグと下級構成員に追い回され、息の詰まるようなチェイスから爆発。落下した緑川ルリ子を捕獲し、クモオーグが彼女を襲おうとしてる所に初代ライダー第1話の1号ライダー初登場シーンを彷彿とさせるオマージュカット。ここまでは良かった。正直、「は~~やってるやってる、これぞ庵野さん」ぐらいの気持ちで口角が上がりっぱなしだった。

しかし、笑ってられたのはここまで。飛び降りた第1バッタオーグ(本郷猛/仮面ライダー)はあろう事か、いきなり下級構成員を殴り潰した。血塗れになるほど。
睨みつけるように振り返った第1バッタオーグはそのまま無機質な殺人マシーンが如く、下級構成員を次から次へと殴り殺し、声を荒げる事もなく下級構成員たちも死んでいく。そして一通り済んだ後は空中回転し、飛び去った所でタイトル。

怖くて仕方がなかった。本当に。そりゃ出血表現もその恐怖の感情を後押ししてるのは当然あるにせよ、そこが本質ではない。あれ程見慣れ親しんだ仮面ライダーが、ただの「戦う為の生物兵器」にしか見えなかった事が本当に怖かったのだ。そしてSEもカット割も、暴力に伴う恐怖、痛み。それらを強烈に表現しているのが映像を通して伝わったからこそ、初見の時は怖くて反射的に目を瞑ってしまったのだ。そして何より、23年も仮面ライダーのファンをやってて、「ライダーが怖い」と思った事そのものがとてもショックだったのである。

これらについてはTwitterでもある程度述べていたのだが、もう少し補足すると、「戦う為の生物兵器」という言葉は僕が最も愛してる「仮面ライダークウガ」で度々用いられたワードである。長くなるので簡略化するが、クウガでは主人公・五代雄介(クウガ)が一歩間違えればそのような戦闘マシーンになるぞと危惧される描写が随所に挟まれていた。クウガ本編では結局そうならず、それはあくまで抽象的なものとして完結していたのだが、実際に真っ向から描写するとクウガもああなっていたんだぞ、と言われてるような気持ちになったのだ。

本郷猛の苦悩、葛藤。2023年版クウガ。

タイトルの直後、本郷猛はひどく怯えていた。自身の力が制御できず、無意識のうちにSHOCKERの下級構成員達を殴り殺した事に。
そして本編を通して描かれるのは、彼の苦悩、葛藤。心優しい青年である本郷は大学時代に不条理で父親を失い、それが緑川先生が本郷をバッタオーグに改造した理由と話した。

暴力への恐怖や葛藤、苦悩を描かれたエッセンスは先述のクウガでも描かれた事ではあるが、本作ではこの点が本郷猛を通して、より強調されていく。どんなSHOCKERのオーグメントと戦った後も必ず黙祷を捧げ、悼む。そういう意味で決して痛快なアクションを娯楽として楽しませるエンターテイメント映画ではないのが「シン・仮面ライダー」なのだ。

また、人物描写としてだけでなく戦闘シーンでも随所に庵野さんが込めたかった要素は見える。ライダーキックはまさにその典型例で、今作のライダーキックは隕石が如く急襲し、強烈なSEと共に壁にめり込む程の攻撃力を併せ持っており、(少なくとも観ていた自分は)痛快さよりも、「相手の命を奪ってる」葛藤や、それらに伴う痛みが強く感じ取れた。(コウモリオーグに喰らわせたライダーキックに至っては彼の身体にめり込んで足元が血だらけになってたのが印象的だ)

正直、自分はシン・仮面ライダー鑑賞前に密かに危惧してた事が「こっち(池松壮亮さん)の本郷猛はこれはこれでいいけど、やっぱりオリジナル(藤岡弘、さん)の本郷猛のがいいな」ってなってしまう事が1番嫌だった。藤岡さんの本郷猛は僕に限らず、多くの人々の中で絶対的な存在として君臨していたし、庵野さんも2021年9月末の会見でそれを自覚的に語っていた。だからこそキャスティングは全然違う方向性で行った、と当時も話していたが、結果的にそれは大正解だったように思う。

僕は藤岡さんが演じる本郷/1号ライダーは大好きであったと同時に、彼のような肉体的にも精神的にも強靭な存在には到底なれない、という憧憬と共存してる葛藤が長らくあった。しかし、今回の池松さんが演じる本郷は「分かりやすく」強いキャラクターではない。等身大の弱さを抱えながら前に進んでいくタイプのキャラクターだ。そんな彼の心の強さに僕も共感し、初めて「憧れの対象」から、「自分も1号ライダーになりたい」と思ったのだ。

彼の心の強さは後述していこうと思う。

救えなかった「彼女」と、救えた「彼」。そして、信頼。

ハチオーグ編と一文字隼人/第2バッタオーグ(仮面ライダー第2号)編の対比はとりわけ印象的だった。

ルリ子さんにとって「友達」と呼べるに最も近い存在であるヒロミ(ハチオーグ)を本郷とルリ子さんは投降を促して、倒さずに彼女を生かせる道を行こうとしていた。故にとどめのライダーキックを本郷は彼女に当てなかった。

このパートで目立って描かれていた事は本郷とルリ子さんの「信頼関係」だった。コウモリオーグとの戦いの直前では「あなたとは覚悟が違う」と本郷の事を信用していなかったルリ子さんは、「僕ではなく、プランを信じて欲しい」と言った本郷に対し、「プランではなく、あなたを信じてみる」と言っていたのが印象的だ。

台詞の中だけでなく、特にそういったやりとりを事前に交わしてたわけでもないのに、本郷はハチオーグを生かそうとしていた事をルリ子さんもそれを望んでるとハチオーグに告げたり、言葉を交わさずともアイコンタクトだけでマスクを被せるくだりなど、信頼関係がしっかり構築されてないと出来ない阿吽の呼吸が目立つパートだ。ルリ子さんに歪んだ愛情を抱いてたハチオーグも、それを見てひょっとしたらイライラしていた可能性さえある。

しかし、2人の想いも虚しく、政府の男(立花、滝)2人の手によってハチオーグは射殺されてしまう。悲しみが漂う中で、本郷は大袈裟な言葉をかけるわけでも、何かを率先してしてあげるわけでもなく、「少し胸を借りる」と言って泣いてたルリ子さんの側に黙って居続けてたのも2人の「信頼」が完成されているからこそ。

一文字隼人は本郷を始末する為にオーグメンテーションされた。しかし、彼もまた強い心の持ち主で、SHOCKERの洗脳がまだ完全ではなかった。その影響と、ルリ子さんが持ってるプラーナによるパリファライズによって彼の洗脳は解ける。ハチオーグの事は救う事は出来なかったが、ようやく救えた1人が一文字隼人だったのだ。このハチオーグ編→一文字編のプロセスの踏み方は秀逸で、2時間映画を構成する上でその後の展開も踏まえて無駄が一切ない。

直後、ルリ子さんはK.K.オーグによって殺されてしまい、一文字隼人は第2バッタオーグから、仮面ライダー第2号となる形になった。これらの展開は史実である藤岡弘、さんのお怪我から2号へのバトンタッチと同時にルリ子さんが物語からフェードアウトしたオリジナルの展開を上手くドラマ内に落とし込んだと自分は思ってるのだが、割とここは賛否の分かれ目でもあった。(本郷の足を負傷させたのが一文字なのは解釈違い、など)

そしてルリ子さんが予め遺していたビデオメッセージ(遺言)を本郷は観る。

「あなたを信じて、あなたに託す。」兄である緑川イチローの野望を止めて欲しい想いを本郷に告げ、ルリ子さんは本郷への気持ちを笑顔で語った後、別れを告げた。これもまた、彼女なりの「信頼」の表れだった事は言うまでもない。

艱難辛苦、哀しみを噛み締めて。

さて、本タイトルでも述べてるように「ヒーロー」の定義の語り方は作品によって様々だ。

例えば以前、僕もnoteの記事にしたが、スパイダーマンNWHでは「孤独になる事を恐れないからこそ、ヒーロー」という落とし所で物語の幕を閉じた。
ヒーローの語り方も作品によっては明るいテイストで、「誰がなってもいい、どんな人でもなれる可能性を秘めている」と主張する作品も多い。それはそれで凄く素敵なメッセージだと思う。

だが、シン・仮面ライダーに於けるヒーローの定義は僕が特に好きなタイプのものだった。ルリ子さんを喪い、緑川先生を喪い、ハチオーグも救えず、自分は暴力への辛さとずっと戦い続けている。これらの困難、苦しみを抱える事は並大抵の精神では務まらない。例え大人だとしても、誰にでも出来る事ではない。

それでも、痛みを伴う出来事を乗り越えて、他者の想いを背負って成すべきことを成す。この要素は同じ庵野さんの作品である、シン・エヴァでも終盤の碇シンジに取り込まれていた部分だったように思う。庵野さんが好きな精神性なのかもしれない。

それだけの事を背負える心の強さがあったからこそ、本郷猛は「分かりやすい強さ」ではないけど、誰もが立派だと認める「仮面ライダー」であり、「ヒーロー」だったのだ。序盤でルリ子さんが本郷に「ヒーローと言えば赤なんでしょ」とマフラーを巻き、そのマフラーを死に際に「似合っていた」と告げたのは彼女なりに本郷の事をヒーロー、と認めた瞬間だったのだ。これが作中内に於ける「ヒーローの定義」を決定づけた瞬間だったと思う。

また、終盤でイチローと決着をつけ、一文字に「後を頼む」と言い残し、本郷の肉体は消滅した。しかし、立花と滝に本郷は一文字宛に伝言を彼もまた、残していた。「自分が消えた後も、一文字に”仮面ライダー”を名乗り続けて欲しい」と。

ここで言う「仮面ライダー」は「ヒーロー」の置き換えだ。つまり、本郷もまたルリ子さん同様に一文字の事を立派なヒーローとして認めたのである。

少し皮肉なのは、本郷は父親に対して「父は、父を失った僕達家族の事よりも、最後に他人を心配する人でした」と言っていたのを彼もまた同じ道を辿っていた事である。(本郷を喪った一文字の事よりも、もっと他人である筈のイチローとの決着を優先した)

哀しみを背負ってもなお、戦い続ける。そんな仮面ライダーとしての矜持を一文字に託し、一文字はそれを受け止めて「仮面ライダー第2+1号」として新たなサイクロンと共に風のように去っていく所で物語は幕切れとなった。(この第2+1号についてだが、通常は2号は腕のラインが1本で、1号が腕のラインが2本のスーツデザインである。しかし、第2+1号は2号がベースでありながら腕のラインが2本。つまり、スーツデザインにも本郷の魂がしっかり”継承”されているのだ。これに2回目の鑑賞時に気付いた時、号泣した)

総括



結論から言うと、この記事を書いてる時点で既に僕はシン・仮面ライダーを7回鑑賞してる。

当初は物語のスピード感や、想像していたものと違ったギャップに困惑して、評価に大変困っていたし、今でもその節がないわけではないが、好きかどうかで言えば明らかに「好き」である事は間違いない。

円盤購入や、グッズ購入も初見から終わって暫くは正直悩んでたが、今となってはベルトも2つあるし、アーツもしっかり予約していたもので遊んでる。

DX変身ベルト2つ。ギミックよりコートを着てなりきる事にどれだけの楽しさを見出せるか、だと思います。
アーツ。色々言われてましたけど、やはりコートがあるのは良い。

勿論、不満要素がないわけではない。当初期待していたアクション要素ではFilmarks等でも書いたように正直言ってもっと良いものを期待していただけに落胆しているのは今でもある。「変身ポーズ」も観たかったし、他にも挙げれば相当ある。

だが、本記事では敢えてその辺りをあまり書かなかった。

それらを踏まえても、噛み締めて「好き」と言えるかどうかが少なくともこの映画にとって、重要な事だと思ったからだ。

様々な想いは今でも交錯するが、近年のライダー作品が合わなくなって離れつつある、自分にとって最後の仮面ライダーがこれでよかったと思う。

年単位で時間をかけて気持ちを高め、何回も繰り返しリアルタイムでリピートする「原体験」こそが何にも代え難い。それを分かっているから。

ありがとう、シン・仮面ライダー。庵野さん。


僕も、彼等のようになりたい。

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