見出し画像

もし、私が「」だったら

もし、私が写真家だったら

「ポートレートが苦手だから」とか言い訳をして、幸せそうに眠るお母さんを撮るのを躊躇してしまうし

スナップ写真ばかりでフォルダが溢れて、肝心なことを忘れていそうな気がする

最初にCanonの9000Dを手に取った理由を思い出して欲しい。


もし、私が旅人だったら

今のモンベルのバックパックじゃ少し小さいからと、買い換えてしまう。

圧縮袋を使うという選択肢が、その頃の私にはなさそうだし

何より「結局日本が一番好きかな」と、世界一周を途中でやめてしまうくらいには大雑把

せめて北欧あたりには到達して、ミートボールとグレイビーを堪能して欲しい。


もし、私に今でも父がいてくれれば

十数年間の母の苦労も、無駄なゴタつきも、私を育てた焼肉屋も、寂しくて飼い始めた柴犬との散歩の時間も、母とのお出かけも、兄がスーツを着てきた三者面談も、

無条件を超えた愛もなかっただろうと。


何かが欠けていることは、修復する価値もあるということであり、修復可能な部分は家族愛含め探せば実はそれなりにある。

無論、修復する労力というのはない方が楽なので、過去の父には健康な生活を送るよう心がけて欲しい。今更だが。


もし、私に彼氏がいれば

きっと今頃クリスマスの予定を立てていて、槇原敬之の” 冬がはじまるよ ”を猛烈に聴いていただろう。

それに服だってパーカーだけじゃなくて、頑張ってワンピースでも着ていたかもしれない。

いつもはしない髪型のアレンジも、寝る前の布団の中で調べて「早く起きてやってみようかな」と思うけど、どうせ起きれないのはわかってる。

寒くなってきたくせに「今日は何軒ハシゴしようか」と、小岩か高円寺にでも入り浸って

総武線で駅を通過するたびに、いつか懐かしむ時が来るのかもしれないことを怖がるだろう。


もし、私が仕事ができる人間だったら

見積書も桁を2つ間違えて出すこともないし、期限ギリギリで企画書を出すこともなければ、深夜に資料を急いで作って次の日寝坊することもない。ポンコツ加減に日々しんどくなっている。なんなんだ私は。


もし、私が私でなかったら

多分Twitterはやっていないし、40超えた人たちと二郎にも行ってない。

多分、大学で出会った友達と就活だるいな〜って話しながら、いわゆる「オケオール」というものをしてお母さんに怒られていただろう。

それもそれでよかったかもしれない。ただ、今は今で好き。



もし、私が定期購読マガジンを廃刊にしたら

非常に楽。

そりゃもうすこぶる楽

誰かが私のnoteを定額でお金を払って待っている状況が申し訳なくてならん。

月最低三回は更新しないと定額制の意味がなくなってしまう。ただ、私の人生は月三回以上濃い話がかけるほど豊かではない。そいでもって私の文は別にお金をかけるほどの文でもない。

やっぱり、書きたいときに書きたいことを書いて、有料というフィルタリングも必要な時だけ。そういう環境の方がストレスフリーでいられるんじゃないだろうか。


ということを言いたいがために、前置きをそれっぽくしてみた。


定期購読者の皆さま、すいません(;_;)購入してくださったnoteは引き続き観覧可能です!



以上、ただただ言い訳を述べるnoteでした。すんません。










いただいたサポートは、可愛い可愛いボーダーコリーのジョアのおやつにしちゃいます。ありがとうございます。🐕