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キョージンナリズム番外編『キョーレツナリズム2013』前篇

(最近の「キョージンナリズム」に登場するシンセ弾きの冨田くんと幹ちゃんの裏エピソードをすでに2013年に発表してました。良い機会なので再録します)

 2013年が暮れようとしている。私、平田幹(みき)にとって40代最後の年。来年には半世紀も生きた事になってしまうなんて、信じられない。
 12月22日の日曜日、クリスマス・イヴの2日前に私は吉祥寺のカフェ・ズミへと足を運んだ。私の知り合いでもある、「くじら」のヴォーカルの杉林さんのイベントがあるのだ。彼が歌うのではない。彼が「くじら」を結成する前に自主制作盤として発表していた電子音楽のレコードを聴く会なのだ。
 「くじら」は、80年代の東京インディーズ・シーンに特異なる音楽ユニットとして登場する。パンクでもなく、あのリザードのようなサウンドでもなく、きわめてメロディアスで歌詞をはっきりと歌うアコースティック・ユニットとして、インディーズ・シーンで異彩を放った。しかも『ノーPAライブ』という形態で話題になった。音響システムを使わずに、メンバー3人が客席の中を縦横無尽に歩き回りながら歌うライブ。音楽は一聴すると穏やかなのに、どこか表現に逸脱したものを感じさせるユニットだった。
 だけど、そんな杉林さんが電子音楽を残していたなんて、やはり驚きなのだ。だって、いくら「くじら」が逸脱したユニットでも、やはり歌で表現するユニットだったから、歌もなく、電子楽器で構成する音楽を残していたとは思わなかった。
 今日はそのレコードを聴き、そして当時を振り返るトークがあり、さらにライブがあるらしい。ライブも電子音楽。今日は、とことん歌わない杉林さんであるらしい。
 カフェ・ズミは私は何度か来た事がある。当初、フリージャズの店などと紹介されたが、本当はちょっとちがう。むしろヨーロピアン・ジャズのレコードが膨大に置かれたカフェだ。ヨーロッパのジャズは、アラブ系の音楽とも融合したものがあったり、クラシック出身のアーティストが参加したものも多い。そして、ジャズのカテゴリーを限りなく横断しつつ、新しいジャズを生み出している。そして、それらのほとんどは日本に紹介されていない。そういうレコードを、自慢のオーディオで聴かせてくれる店だ。20kgもあるターンテーブルにレコード盤を吸い付けて回す。こうすると音量をあげてもハウリングを起こさない。重さが、音による振動を寄せ付けないのだ。そして、吸い付いたレコード盤を、20万円のレコード針がなでて行く。
 今日はこのターンテーブルに杉林さんの電子音楽が乗るんだな。私はエレベーターで7階にたどり着く。開けば、そこはもうお店。杉林さんが私に気づいて「あ、忙しいところ、よく来てくれたね」と言った。「忙しくないんですよ、私。クリスマス周辺、予定ないの」と答える。「でもライブ、再開したんでしょう?」と杉林さん。「ライブ、めったにやってないんだもん」と私。お店の泉さんに私は会釈して、赤ワインを頼んだ。
 三々五々お客さんが集まってきて、定時になり、レコードが乗せられて、A面が鳴り始めた。まるで太鼓のような音で始まる。そして、ジョン・ハッセルのエフェクトかけたトランペットのような「むわー」とした電子音がかぶさる。なんか、良い!全然ピコピコしていない電子音楽!!
 曲はうねりうなり、繰り返される。反復が少しずつの差異を生み出す音楽。曲の一続きが終わると、次の曲へ。今度はゆっくりとした「ぴっ」という電子音に導かれて、低音の電子音がリズムを刻む。これも反復の音楽。途中からエフェクト書けた声のよいうな音が響く。ひとしきり繰り返して、終わる。そして次の曲。ああ、これもう、アフリカの民族音楽だよ。まばらな、笛の音のような電子音が、ばらばらといろんな音程で鳴る。古いコンゴの録音で聴いた事のある、たった一音程しか出ない笛の、いくつかの音程のものを複数の人で分担して吹く音楽に似ている。いい具合に、繰り返しが熱い感じになったあたりでアルバムのA面が終わった。
 杉林さん、これ、すごいアルバムだよ!度肝抜かれたよ。こんなものを80年頃作ってたの!?当時の、冨田勲にも似ていないし,プログレにも似ていないし、ブライアン・イーノのアンビエント的なものともちがう。ましてや、ノイズ電子音でもない。ものすごくオリジナリティがある。強いて言えば、民族音楽の影響を感じる。
 トークが始まってすぐに、謎が解けた。当時の杉林さんは、本当に民族音楽を聴き漁っていたのだ。彼がまだ名古屋在住だった頃から、わざわざ東京に民族音楽のレーベルを扱う店まで買いに来たのだという。そう、80年代終わり頃に六本木にWAVEができる以前は,民族音楽を手に入れるのは大変だったんだ。あの頃の私は、同じくそういう音楽に興味を持って、芸能山城組のケチャ祭に行ってみたり、北インドの古典音楽のレコードを買ってみたりしていたんだっけ。
 この日のトークゲストである地引さんが当時のシーンを語っている。地引さんは当時、テレグラフレコードを主催して、EP-4やカトラ・トゥラーナをリリースしていた張本人だ。私は、あの頃カトラ・トゥラーナに知り合って、くじらを観るように勧められたんだ。
「当時のくじらのインパクトはすごかった。いわゆる、それまでのロック的とされていた表現を用いないでも、ロックになりえる事を証明してしまった」と地引さん。まさに、そうだと思う。
 この日たまたまお客さんで来ていた、くじらのドラマーの楠さんが熱く語り始めた。
「この店のオーディオで聴くと、本当に良い音だね!当時、聴いた頃よりも、すごく良い。というか、あの頃はちゃんと聴けてなかったんだと思う。とんがっていたし、人の音を真剣に聴く前に、自分がどう目立つかばかり考えていたやんちゃな頃だから」
 私は楠さんは、今もやんちゃだと思っていて、そこが大好きだ。私がシューのマネージャー時代にマンナのサポートのパーカッションをやった時に、支えてくれたのが楠さんだった。やんちゃで、しっかりとしたドラミングで…。
 この日のライブとトークのゲストである米本実さんが、当時の杉林さんが使っていたシンセサイザーのカタログを持っていて、それを見せながら、どういう風に組んで使って行くシンセサイザーだったのかを専門的に説明していた。米本さんは、自作電子楽器で有名な人だ。おそらくシンセを知り尽くしているんだろう。そして、それに対応して楠さんが言った。
「杉ちゃんはさ、米本君が言ったような専門的な事は全部分かっているわけじゃないのに、なんかこのシンセのツボみたいな物を、勘で把握しちゃってるんだよね。それを押さえた上で、自分なりに音を作っちゃって、しかもそれをきれいに録る。決してぐちゃぐちゃにならないんだよ。すごいよ。歌作る時と同じなんだよ!」
 なるほど、そうなのか。バンド内の別の人の目から見るとね。でも、この杉林さんの電子音楽が、杉林さんの歌とは、まったく別の引き出しから出て来たものではないのは、なんか私も感じていたんだ。
 濃いトークが続いたあとに、杉林さんと米本さんによる電子音楽ライブとなった。米本さんは自作の『システムY』という電子楽器、まるで昔の冨田勲とかの壁面シンセがミニチュアになったような形に組んだ物を持って来て参戦。かたや杉林さんは最近購入したばかりという、MICROBRUTEなるシンセで応酬。米本さんの自作シンセに杉林さんのMICROBRUTEで信号をMIDIで送り、それに呼応して米本さんの自作シンセがある部分操縦される。ところが、それが一筋縄ではいかない有様で、と言うのも米本さんのシステムYにはなんと家庭用の電球を組み込んだユニットが入っていて、それが杉林さんが弾く信号に応じて明るさを変えるのだ。すると、米本さんのシステムYには、その電球のそばに光センサーを設置しているものだから、明るさが変わるとセンサーがそれに応じて、なんと米本さんの電子音が変調する。米本さんは「世界広しと言えども、電球を組み込んだシンセは僕のだけです」と笑いを取ってからライブに突入した。お互いのノイジーで無調な感じの音の重なりから、だんだんと生き物がうごめくように二人の思いが共鳴したり、かいくぐったりして来た。二人のライブは、さっき聴いたレコードの音とは全然違うけれど、なんか地続きで鳴っているように聴こえる。杉林さんは、携帯ラジオも鳴らして、人の声をさらに変調させたりもしている。
 私はこれを聴きながら、まったく別の、80年代後半に出会った年下の男の子の事を思い出していた。彼は将来有望なシンセサイザー奏者と言われていた男の子で、音大に在学中からもうそこそこ有名なアーティストと仕事をし始めていた。私は彼に出会って、なんかピュアで貪欲な音に興味を持ったんだ。そして、それ以上になんか彼の「うぶな」感じに惹かれて、ちょっとちょっかい出したくなっちゃったのだ。

 【に続く】

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