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90年代初頭、日本のメディアはアジア進出しようとして…

 91年は私が音楽ビジネスに飛び込んだ年であると同時に、バブル崩壊の始まりの時期であった。まだバブル崩壊を把握できていない日本のメディアは「これからはアジアだ」とアジア各国に進出するプランを語り出した時期でもある。
 そんな中で、フジ・サンケイ・グループはフジTV系列でシンガポールから深夜番組を放送する企画を立てた。→『アジア台風ショー(大木凡人・ルビー・モレノ司会。シンガポール国営放送から放送したクイズ・バラエティ)』がそれである。
 この番組のテーマ曲を歌う女の子ラテン・バンド「キング・ビスケット・タイム」が結成された。このバンドの結成とレコーディングには私もいろいろ尽力した。このバンドは番組にも毎回出演していたので、女の子たちは何度か収録にシンガポールに行った。(私は連れて行ってもらえなかった)
 実はバブルな80年代の日本がアジアなど見向きもしなかったうちに、東アジア〜東南アジアは何ヵ国でも同じ番組が観られるケーブルTVネットワークを構築済みで、さらにどの国でも通じる携帯電話を完成させていた。日本など相手にせずにマーケットが出来上がっていたのだ。
 私は「日本はやっと重い腰を上げてアジアの一員としてマーケットに参入するんだな」と喜び、その仕事の一角に関わるのを楽しみしていた。しかし、結果的にそれは失敗する。私が予測するに、日本はアジア各国に高飛車な態度で参入しようとしたのではないだろうか。
 アジア各国としては、アジアに溶け込もうとしないのに、態度がでかい日本を煙たく思ったのではないか。そんなやつを仲間に入れるはずがない。日本の90年代初頭の「アジアに進出するぞ」という空気感は急速に萎んでいった。
 そして日本は相変わらずアメリカ追従の日々をまた始めるが、それを横目にアジア各国は、日本のようなめんどうなメディア規制や電波規制のない中で、ハードもソフトもどんどん21世紀仕様に進めて行った。
 「失われた◯◯年」とよく言われるフレーズは、実はあの時に本気でアジアのネットワークに飛び込んでいけば解消された部分があったと思うのだ。
 あの時にチャンスを逃した事を理解している人は少ないのではないだろうか?「まごう事なきアジアの片隅」の日本が「あたかも自分だけ特別な国」であると誤解して、重要な時期を棒にふった。
 …私はあの頃の自分の仕事を振り返ると、あの時のトキメキも蘇るので、とても残念に思うのであるよ。

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