キョージンナリズム 第40話
から続く
植木さんの誘いで世田谷美術館に来た。すごく良い天気。駐車場から美術館への道を、背の高い木々を眺めながら散歩する。世田谷美術館は近年はかなりワールド・ミュージックのイベントを開催している。韓国の打楽器集団のサムルノリや、先日来日したドゥドゥ・ニジャエ・ローズもここでコンサートをやった。
受付付近まで来たら、すでに植木さんがいた。
「チケット買っておいたよ」
「ありがとう」
けっこうな人出だ。みんなどこで聞きつけて来たのか、満員になりそうだ。最近はワールド・ミュージックのコンサートはどこも満員になるらしい。取材も入ってあとで雑誌に出たりする。
アフリカからミュージシャンを招くのは、それ相応に予算もかかると思うけど、今は企業もこの手のイベントにお金を出すのが「名誉」な感じなのかもしれない。ましてや美術館の場合は「国際文化交流に貢献する」という名目で予算が降りやすいのかも知れない。
もし雨天なら屋内ホールでのコンサートだったのだが、ものすごい晴天だから半地下のスペースで屋外コンサートとなった。
コンサートが始まる。300人以上入ってるみたい。BGMも流れずに、カクラバ・ロビさんの登場を待つ。しばらくすると、やおら現れる。
左肩にタイコを下げて、右手にバチを持ち、左手は素手で、左右の手で打ち鳴らしながら歩きながら登場した。
ずんぐりむっくりした円筒形のタイコは、胴は木で打面は何かの動物の皮。そして打面に一本ヒモが張ってあるらしくて、打面を打つと共鳴して濁った音になる。低音がよく響く素敵な太鼓だ。
右手のバチと左手は素手で、自由自在にアクセントをつける。私は小声で植木さんに言った。
「打楽器だけでこんなにグルーヴが出せるんなんてすごい」
植木さんも小声で答えた。
「こういう太鼓に俺が静かにギターで入るようなイントロをやりたいなあ」
曲を終える。拍手が鳴り響く。そしてカクラバさんはアフリカの木琴の前に座る。この木琴を私はバラフォンと呼んでいたけど、その後よく調べたらカクラバさんのガーナでは「コギリ」と呼ばれているのだ。主に葬儀や祝祭のために演奏される木琴らしい。つまり、神様と会話をするための楽器だよね。
ワールド・ミュージックを聴くといつも感じるのは、彼らの音楽は(生活は)神様に近いのではないか。生きているだけで、神様がそばにいると思っているのではないか。それが無理なく信じられているのではないか。そう、日本でもどの街にも神社があるのと同じように。だから神様と楽器で会話する、というのが嘘ではないんだ。
(私のこの予感は、後日バリ島に行った時には確信に変わるのだが、それはまだ後の話…)
その木琴「コギリ」にマレットが打ち下ろされた。木が鳴る音は、その下につけられたひょうたんに反響して複雑に共鳴して、私たちのお腹を震わすような豊かな一音となって響いた。
カクラバさんの両手がどんどん動いて、旋律とリズムが渾然一体となって奏でられる。高音から低音までが残響音を含めてひびく響く。植木さんが小声で呟く。「すごいな」
どんどんリズミカルになる。パーカッションが入っていない独奏なのにタイコが鳴っているかのようだ。低音部を担当する左手が侮れない。リズムを見せたり、裏旋律を奏でたり、自在の動き。
「これにギターを乗せたいけど、音程がなあ」
植木さんのこの呟きは、わかる。コギリの音程はまったくドレミファソラシドになっていない。もっと言えば、12音平均率になっていない。私が聞いた話では、木琴の音程は部族によって違うのだと言う。他の楽器と合奏する必要がなかったから、そのように出来ている。たぶん、木琴を西洋の楽器に合わせるように作る事も出来るだろう。でも、たぶんそれだと意味をなさなくなっちゃうだろう。
カクラバさんの曲はどんどん進む。英語で「これは葬式の曲」などと説明している。静かな曲も、リズミカルな曲も独特の風雅がある。
不意に涼しい風が通り抜けて、顔を撫でた。気持ちが良い。その時に、少し客席の方を見た時に気がついた。見覚えのある顔がある。カクラバさんの演奏を、食い入るように見つめている、あの男の人は…後藤くんだ。後藤くんに間違いない。カクラバさんの手の動きを一つも見逃すまいと真剣に見ている。
に続く
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