見出し画像

羽化したくない話

 バイト先の先輩に挨拶をする、契約解除の話をする。近所の人に挨拶をして、必要なら世間話に付き合う。お世話になった先生に挨拶をする、自分でも中身がよくわからない、のし紙をつけたプレゼントを渡す。
 会う場所も違えばそれぞれの立場も違う。それでも行く先々でかけられた言葉は激励だった。
 私はそれに笑顔で返事をする。守る気もない将来の約束もする。その時だけは、私は主役だった。
 長い長い蛹の期間を終えて、羽を広げて空を舞う蝶になった気分だった。家に帰ると、決まって私は布団に潜った。
 蝶は蛹から出たばかりの頃は羽が湿ってしわがあって上手く飛べないから、羽を広げて乾かしてやっと飛べるようになるらしい。
 私にはまだこの世界は広すぎるから、まだ飛べなくていい。せっかく乾いて飛べるようになった羽を湿らせて、布団に、蛹に、帰る気分だった。
 もちろん自分が望んだ事だけど、これからはこの蛹に帰れない生活が始まる。ひたすらに怖かった。
 それでもきっと、遠い将来の私はとっくに羽化を済ませて広い世界を飛んでいるのだろう。飛ばざるを得なくなるのだろう。
 そして、蝶になった私は、蛹の私を思い出して、馬鹿にするのだろう。いつまでも蛹に籠って見たこともない世界を怖がっている私を。
 それは、嫌だ。私は、今までの醜い蛹の私が大好きだから。地を這うことしかできない、そんな私が好きだから。他人には見えない、私にしかわからない美しさがある。その、私だけの美しさを忘れてしまいたくない。
 許してほしい。私には勇気が無い。世界を見るだけでも怖い。

そう言い訳をしながらまた蛹に帰る。

この、最後のモラトリアムを許してほしい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?