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『そんなに好きなら漫才の時じゃなくても応援してあげなよ〜!!』

「漫才師さんは好きだけど、漫才番組よりバラエティ番組で彼ら、特に賞レースにまだ参加している途中の人を見ることが多くなると心から応援出来ない。」と言うと100%そう返される。多分これを読んでいる人もそう思う、と思ってる。とても辛い。悲しい。

 私がこんな面倒な考えを持つようになったのは漫才を好きになったばかりの頃、見るネタ全てが面白くて(今もそうですけど)、そんな神様みたいな彼等の事をもっと知りたいと情弱ながらにスマホで彼等の事を調べた時で。溢れんばかりのスキャンダル、サジェストに並ぶ不穏な単語、もちろん彼等を良く言う記事も沢山あったけど、どうしても悪い記事ばかりが目について、脳にへばりついて、漫才を心から楽しめなくなった。彼等は神様じゃなかったから。人間だったから。
 
 そしてかれこれ一ヶ月程悩みに悩んだ。心の支えになりかけていた漫才が、スキャンダルを起こす人間によって構築されていること。そして、その人間の収入源である漫才で笑って、救われている私はとんでもない罪悪人なのではないかと。
 
 悩んだ結果、私は彼等を『漫才師の彼等』と『人間の彼等』とを分けて考えるようになった。スキャンダルを起こしているのは『人間の彼等』であり、『漫才師の彼等』はただ私を救ってくれた存在。そうすれば、私は罪悪感を持たずにただ漫才を楽しめるようになるから。
 
 私は多分『人間の彼等』には興味が無い。家族とか収入とか彼らの住んでる部屋とか趣味とか、恋愛とか。それは漫才ではないから。それが漫才のネタの元になるのなら別だけど、ネタにすらならないそれには少しの嫌悪感すら覚える。だってそれに費やす時間を漫才に当てればもっと『漫才師の彼等』としての実力がつくから。
 
 いくら薬栗鼠のノートをここまで読むような厳選されたふぉろわさんでも、ここまで読むとさすがに引くだろう。私も文章にして改めて読んでみて引いてる。多分この考えは、人としてとても良くないものだと思う。『漫才師の彼等』を構築する『人間の彼等』の自由をまるで奪ってしまうような考えだから。
 
 私が人望も無くこの世界に少しの影響も与えることの無い、無力な人間で良かったと心から思う。こんな考えを持つ人間はきっといてはいけない存在だから。

 
 『漫才になりたい』この言葉はネタでもなんでもない。初めは確かにネタとして言ってたはずの言葉が、時間と共に私の思考を侵食している。漫才という概念になれたならきっと私は幸せだろう。全てのネタの評価で喜んだり落ち込んだり、舞台から観客に笑いを届けたり、誰よりも何よりも全ての新ネタを一番早く観られたり。まぁ概念に感情も自我もないだろうけど。

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