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傷つけないため/さらけ出すこと

自分の不幸を書くこと、たったそのことひとつとっても、これまでに僕はきっと沢山の人を傷つけてきたのだろうな、と思う。

一つ前の記事(「舟を沈めない」)を読み直して、冒頭の孤独死のくだりは傷つく人もいそうだな、要らなかったな、と考えたりしている。

他人を傷つけたくない。

(そこに文脈が存在する限り)誰も傷つかない言葉は存在しないのだろうと僕は普段から思っている。
けれど、傷つく人はすこしでも少ない方がいいし、誰かの心をどうしてもえぐってしまうのなら、その深さはすこしでも浅い方がいい。

そうした心を持つこと、持とうとすることがきっと思いやりなのだと思いたい。
その思いやりは僕の場合少しズレていることが多いけど、そのズレを少しでも修正できたらとは思う。難しいことだけど地道に長い目でやる。

(ものすごく他人に気を遣ったり思いやったりしてるつもりなのに、実際は気遣いのポイントがズレていて、結果的に人を傷つけてしまって、そのことに自分も傷付く、というこのパターンは、僕に限らず、ASDあるあるな気がする。

ほかのASDの方がどれだけこの文章を読むかわからないけど・・

あなたが思いやりの心を持っていることは、必ずちゃんと誰かに伝わっています、
お互いめげずにやりましょう)

誰のことも傷つけたくない。
そのことを徹底すると、咲いてる道端の花が綺麗だね、空が綺麗だね、街にいる鳥がかわいいね、という当たり障りのないことくらいしか書けなくなってしまう。しかしそれはそれで、自分のことばかり書いている僕の普段のSNS、文章よりもずっといい気もする。

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閑話休題
美味しかった煮干しのラーメンです



僕は文章も音楽も自分をさらけ出すようにやってて、それはよく人にも指摘されるから、実際そうなのだと思う。
なぜかといえば、それしかやり方がわからないから。今のところそれしかできないから。あとは多感な時期に早川義夫さんの本に感化されたのも影響しているだろう。

だけど実のところ、自分の心の醜い部分、自分の嫌いな部分、見せたくない部分はまだまださらけ出せていない。

それはたとえば、誰かのことを見下す瞬間であったり、見た目だけで判断して人に嫌悪感を抱く瞬間であったり、自分と他人を比較して「勝った」と思う瞬間であったり、具体的に挙げれば沢山あるけどそうした時の自分の心のこと。

さらけ出すならそこまでさらけ出さないといけないのだ。自分の美しい部分ばかり見せようとすることも、また弱みばかり見せようとすることも、ずるい。
そして、すべてさらけ出すというのは茨の道だけど、そうした人の表現はとてつもなく魅力的だ。

まだ自分の表現には、嘘や、隠していることがあって、それが聴いている人に伝わっているのかもしれなくて、これは自分がスパンと突き抜けられていない理由のひとつなんだと思う。

おそらく僕の場合、二択なのだ。
徹底して自分のすべてをさらけ出すか、
徹底して自我を殺すか。

前者の場合、
今の生き方の延長線上にそれはある。

いっぽうで、さらけ出さなくても音楽や文章などには自然とその人のすべてがあらわれるのだから、エゴを殺して音や言葉そのものに集中するのだという考え方をするなら後者。

他のやり方、たとえば、目に映る世界を客観的に徹底的に描写する、みたいなやり方なんかは、自分には到底できそうもない。

全部何でもかんでもさらけ出せば良いってもんじゃないんだろうな、とも思うし、何が正解なのかはわからない。ただ、自分らしくやりたいという意味においては、自分をさらけ出す方向にこのまま進みたい気もする。

ただ本当は、こんなことを自分の頭の中の言葉でうだうだ考える前に、音楽やったりつくったり、本読んだり、人と会ったり、そっちが先なんだと思う。頭の中で考えているばかりの時はだいたいメンタルがおかしいときだ。目の前のことやってゆこう!

4年くらい被ったブラックスモーカーの帽子、
ついにちぎれてかぶれなくなった 
これまでありがとう

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