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鮎の塩焼きと入院の思い出

昨日は、家から徒歩2分のところにある公園で祭りをやっていることを思い出した。鮎の塩焼き(写真1)の出店があったので、それを食べて帰った。


鮎の塩焼きという食べ物に僕はちょっとした思い出がある。以下は人によっては暗い話に感じるかもしれないけど、そのことを書いてみようかと思う。


2016年の6月〜9月の3ヶ月間、僕は入院をしていた。千葉県の東の方にある、2〜3時間に1本の電車を逃すとたどり着けなくなるような、とても遠い病院だった。


なぜ3ヶ月いたのかとか、なぜ千葉まで行ったのかとかはここでは省略するけど、その頃は自分の人生の中でも一番しんどかった時期のひとつだった。


病棟の中ではカエルやコオロギやゲジゲジが出たので、東京で生まれ育った自分はカルチャーショックを覚えた。

看護師さんに「カエルが出ました」と言ったら、「カエルくらい放っておきなさいよー」と言われてさらに驚いた事もはっきり覚えてる。


病棟には楽器が持ち込めたので、ハナムラ楽器の青いミニギター(写真2右)をよく弾いていた。その入院期間中に作った曲が「もうさよならは言わない」という、僕の2ndアルバムのタイトル曲なんだけど、これはこの話だけで分量があるのでまた別の機会に・・



ある日、地域の祭りに患者さん達で出かける機会があった。その病院は数年単位での入院の方も多く、またいわゆる開放病棟だったのでそうしたイベントがあった。

予算が人によって違って、自分は700〜800円くらいだったんじゃないかと思う。


患者さんの中で仲良くしていた50代男性Mさんという方(彼もギターを弾いていて、世良公則が好きだと言っていた。ブルースとも歌謡曲ともつかない独特な自作の曲を歌っていた)が、フランクフルトを口いっぱいに嬉しそうに頬張っていたこと。海の潮風の匂いがものすごかったこと。そして、何よりはっきり今も覚えてるのが、予算のほとんどを投入して食べた鮎の塩焼きの、衝撃的な美味しさだった。あの旨味と塩味は、強烈だった。涙が出たかまでは覚えてないのだけど、自分の人生の中でもかなり上位の、食の衝撃、感動だった。


なぜあそこまで感動したのだろうか。

病院食の薄味に慣れていたからというのもあるんだろうし、ほんとうに美味しかったんだろうとも思うけど、刺激のない悶々とした暗い病棟生活の中での、数少ない非日常的な刺激、光のようなものだったから、というのが、実際のところの一番の理由なのかもな、と思う。

とにかく鮮烈な体験だった。


その後無事退院してから、今に至るまで入退院を繰り返しながら(もうしたくないな、と毎回思う)しぶとく生き延びている。だけど、この千葉の入院は1,2争うレベルで印象に残っていて、その時の事を思い出すと、それとともにあの日食べた鮎の塩焼きの記憶もいっしょに蘇ってくるのだった。


あの日以降、鮎の塩焼きは、なかなか機会がなくて一度も食べてこなかったと思う。

昨日久しぶりに期待して食べた鮎の塩焼きはとても美味しかったのだけど、あの7年前食べたときの味には、到底敵わなかった(味の記憶がデフォルメされてる部分もあるとは思うけど)。


今後の人生で、あのとき以上の鮎の塩焼きを食べることは、僕はもうないんだろうな、と昨日思った。

だけどそれは悲しいことではない。暗い記憶の中に存在する鮎の塩焼きの思い出は、なんだか今振りかえるととても美しいもののように思えるし、もしもあのとき以上に美味しい鮎の塩焼きを食べてしまったら、良い記憶が上塗りされてしまうような気がするから。あのときの鮎の塩焼きが、ずっとオンリーワンでナンバーワンであってほしいから。


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