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雑感

春の陽気が憎らしい。
今年はまだ、一回もスノボに行っていないのに!
雪が溶けてしまう!

Chemical Brothersのライブに行った

初めてケミブラのライブに行ったけど、人生で1位2位を争うくらい良かった。
そもそもの出会いは、おそらく中学生の時。
その頃は洋楽が真実の音楽だと思っていたので、UKのロックからテクノ、エレクトロニカまであらゆる音楽を聴いていた。
その中で、テクノにハマるきっかけはケミブラのStar Guitarだった気がする

この音と映像がリンクする(音ハメ?)という面白さに虜になってた。
例えば、電車に乗った時に車窓から眺める風景を見渡しながら、Star Guitarを聴いて、「お、リズムと電柱が音ハメなってる!」みたいなことをニヤニヤしながら考えていた。
そんな思い入れのあるケミブラのライブ。すごく楽しみだった。
大抵のライブって、前日くらいまで「行くのだり~」となり、既に支払っているチケット代と行かないことで得られる自由時間を天秤に掛けてしまうのだけど、ケミブラに関して言えばそんなこと微塵も思わなかった。
早く行きたい!

実際のライブ状況などのレポは割愛する。
ただ、感じたこととしては、音楽に合わせて踊ることってなんでこんなに多幸なんだろうか、と。
俺は、大学生の時に、後に彼女となる人と初めてテクノフェスに行った時に、朝5時まで酒も飲まずに一心不乱に踊り続けた。その時の映像は鮮明に覚えているし、その時の感覚も覚えている。とにかく多幸だった。

それはそうと、俺はここ最近、何事にも集中することができない。
漫画を描いたり、仕事をしたり、本や映画をみたりするときも、何かが気になって集中できない。
最近では、春一番みたいに強風の時が度々あるから、「お、今日いい風吹いてんな」ってなって気がそっちに向かう。
人と話しているの時に、店内のBGMに気を取られる時もある。よくない。

でも、音楽で踊ること、特にテクノやハウスで踊ることは上記のそれとは違う。とにかく、夢中になれる。集中できる。
リズム感がない俺でもリズムを感じる。
まずは手をパタつかせて、首を縦に振り、自ずと身体が揺れる。
下を向いて目を閉じると、爆音が鳴り響く自分だけの世界になる。
そんな瞬間に頭が空っぽになる。頭が空っぽになって、リズムが身体を勝手に揺らしている気分。
そんな時に多幸感を感じる。

常日頃、何かどうでもいい雑念であったり、小規模ですぐに霧散するような悩みを抱える俺にとって、その雑念がない状態というのは幸せなんだな。
まぁ、何か特別な日、日常とは違う非日常に幸せを感じたりするもんだ。
とても綺麗な風景を観たときだったり、素敵な出来事が起こったり、日常との非日常のギャップに特別さを感じるのだろう。
その特別さこそがが幸せなんだとしたら、俺は雑念がある日常からの解放こそが非日常であり、幸せなのかなと。そんな風に思った。
まぁでも、なんというか、幸せというより多幸的な体験なので、幸せとはやっぱり違うかも。んーわかんね

そんな感じ。

陰気な俺

ここ最近、根暗というか、いわゆる陰キャであることが一種のステータスになってるのかなと思う(俺調べ)
少しでも闇がないといけないというか。
闇があることがかっこいいみたいな。深いよねみたいな。
その・・・変わってるねと言われたい願望

わかります・・・
わかるし、俺も人と違うんだ!という感覚で生きてきた。
何か、なんでもいいからステータスが欲しい。
特に、陰気なやつというステータスが一番楽に怠惰で取得できるしね。
特段、努力もせずに勝手に悩んで自己完結すればいい話。
俺はお前より考えてるし、悩んでるし、自縄自縛してんだ・・・と。

今やステータス欲しさなんてないけど、
よく考えるとステータスが欲しいというより、何かにカテゴライズしてほしかったんだと思う。だって、何かにカテゴライズされると自分を名乗りやすいじゃん?
昔から、陰気な感じをかっこいいと思ってたから、その陰気にカテゴライズしてほしかった。何かすごく深くて芯を持ってる感じがしたので。
そのために、陰気なやつになろうとした(いや、これに関しては、必然的に陰の者になったんだけど)
でも、結局、カテゴライズされたところで、自分自身の深さは何一つ変わらない。お前はナニモン?という問いの答えになってなかった。
カテゴリの中で生きることって、何者ぽくなるし、語りやすいし、とにかく楽だ。でも、本質は虚無(ここでいう虚無は、虚無をナルシスト的に使ってるやつのそれとは違って、ガチで悪い意味としての虚無)

現在、俺はそのステータス獲得(カテゴリ参入)フェーズ、超えてます。
陰気であることや、変人であることのステータスはもはやいらない。
むしろ、カテゴリで判断されたくない。
陰キャ陽キャで括られたら、俺自身が麺棒で引き延ばされて平準化されそうな感覚がある。
まぁ、確固たる自分なんていないし、空気と俺の境界て曖昧だけど、それでも自分の輪郭をペンで描けるくらいの自我は保ちたい。そして、なにより他人をそういったカテゴリ・ステータスで判断しないようにしたい。そういうフェーズ

でも、俺はいまだにステータスで人の深さ浅さを判断している部分がある。中学高校の時に恋人がいたか?
もちろん、有りの場合は浅い
ホント、しょーもないですよねぇ~
そんな尺度で測ってもしょうもない。
でも、そんな無意味さに気づていても、いまだにその尺度が生き残ってるんだよね。本当に嫌なんだけど。

あぁ死にてぇ~

死にたいと言えば

The 1975は差別発言以降、そんなに聴いてなかったけど改めて聴くとやっぱりいいな。
この曲って死にたい死にたいって言うけど、本当は生きたいみたいな曲だと思う。まぁそこは、はいはいわかるわかる、なんだけど・・・
俺が一番感銘を受ける箇所はここ。
曲のタイトルにあるとおり「I always wanna die (sometimes)」ということ。

俺は、「多分、絶対」という言葉のあやふやさの妙がすごく好きなんだよね。
「多分」を付けることで、「絶対」を逃がしてあげてる感覚。
「絶対」てすごく強い言葉だし、角があって、「多分」でそれをちょっと丸くしてあげてるみたいな。
もしくは、「多分」という緩い丸が、「絶対」を付けることでボンッと膨れ上がる感覚。
その妙をこの曲には感じますね。
私はいつも死にたい、偶にね。という風に、一見矛盾してるんだけど、俺にとっては全然矛盾していない。感覚ですげーわかります。同意。
曖昧なことを曖昧なままにして、それを同意できるっていいよね。
センシティブなことを唄っても、別に鋭利に尖る必要もないし、曖昧なものは曖昧でいいし。

おわり

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