伴名練『なめらかな世界と、その敵』レビュー

みんな、伊藤計劃を倒すことは覚えていても――円城塔を倒すことを、忘れていないか?
伴名練による、円城塔『Self-Reference ENGINE』レビュー(注1)より

1.はじめに 

 私が伴名練の作品を初めて手に取ったのは、1回生の冬だったと思う。
 会誌の編集長に任命され、テーマ決めや組版といった業務の勉強のため、先輩から貸してもらった過去の会誌をかたっぱしからめくっていた時――その短編と出会った。
 会誌のタイトルは「ゼロ年代特集」。そして掲載されていたのは「ゼロ年代の臨界点」。
 あまりにゼロ年代批評的な題に苦笑を浮かべつつ、それでも後学のために……と目を通した私だったが、数行読み進めてこの題に秘められた意味を知るやいなや、苦笑は感嘆へと変わった。
 「ゼロ年代の臨界点」における「ゼロ年代」とは――ゼロはゼロでも、"1900年代"なのだ
 そしてこれは評論ではない。評論の形をとった偽史小説であった。
 もっともらしく語られる1900年代の女学校を舞台にした日本SF黎明期の歴史に、私は翻弄された。人を食った題名と、その一発ギャグめいた発想を大真面目に展開していく真摯さとのギャップに、驚かざるを得なかった。
 そしてそのすぐ後、伴名練のデビュー作『少女禁区』を読み、その語りの巧みさとラストの決まりっぷりに(そしてその元ネタとの乖離ぶりに)、私は再び驚嘆することとなる。以後、年刊SF傑作選収録作を後追いで読み、その後に刊行された同人誌収録作はリアルタイムで読み、現在に至る。
 今回レビューする『なめらかな世界と、その敵』は、伴名練の2冊目の単著であり、これまで同人誌や年刊SF傑作選に散り散りになって収録されていた短編を1冊に結集したものだ。


2.『なめらかな世界と、その敵』収録作について

 伴名練の特徴は、(1)語りの形式へのこだわり(2)過去のSF作品への本歌取り精神(3)「短編」という形式への選択と集中、という3点である。順を追って説明しよう。
 まず(1)語りの形式へのこだわりだが、本作収録の6篇のうち、純粋な3人称の語りと言えるのは「シンギュラリティ・ソビエト」のみである。偽史(「ゼロ年代の臨界点」)、書簡体(「ホーリーアイアンメイデン」)、二人称+仕様書上のメッセージ(「美亜羽へ贈る拳銃」)、変則的な1人称(「なめらかな世界と、その敵」)、一人称+〇〇(「ひかりより速く、ゆるやかに」)など、本作収録作だけでもその奇特さは伺えよう。
 (3)とも繋がる話題だが、伴名練は物語る対象に合わせ、文体や形式を変えてゆく。どうすれば読者に最高の読書体験を提供できるかを見定め、食材である物語を加工する――腕利きのコックのように。読者は彼のフライパン捌きをただ堪能すればよい。彼のもてなしは(ある種偏執的なまでに)丁重だ。
 そして(2)過去のSF作品への本歌取り精神だが、これが如実に表れているのは本書唯一の書き下ろし作品「ひかりより速く、ゆるやかに」である。
 突如内部での時間の進行がゆるやかになった新幹線を軸に展開される本作の着想元は、本文中にも明記されているように過去のSF作品――ティプトリー「故郷へ歩いた男」、梶尾真治「美亜へ贈る真珠」、古橋秀之「むかし、爆弾が落ちてきて」etc.……など、日常の中で起こる遅延された時間を描いた作品――である。伴名練はそれらの参照元を踏まえリスペクトしつつ、2019年現在にアップデートされた形で、過去作という素材を新たに調理し直してみせる。「ひかりより〜」で言えば、ほぼ停止した状態の新幹線内部の乗客(主に修学旅行中の高校生)に対して、外部の人間が思い思いに勝手な物語を彼らから読み取っていく姿――小説投稿サイトで"集団低速災害もの"が流行するなど――が大きなキーとなっている。
 また、元々『伊藤計劃トリビュート』内の1篇として書かれた「美亜羽へ贈る拳銃」では、題名のパロディもさることながら、グレッグ・イーガンや長谷敏司らの脳科学SFへのカウンターとして、アイデンティティをめぐる物語が描かれている。
 最後に、(3)「短編」という形式への選択と集中に関して。
 伴名練は現在のところ、短編しか発表していない純然たる短編作家である。ゆえに(かどうかは因果が不明だが)、彼は「短編」という形式について知悉し、その性質を最大限に活用すべく、(おそらくは)意識的に「選択と集中」を行っている
 「選択」された結果、彼の作品はSF作品にも関わらず、目立ったガジェットは登場しない。登場しても、その原理への科学的な説明は行われないことがしばしばだ。顕著なのは、抱きしめると相手を平和的な人物に変えてしまう能力を持った姉と、彼女がもたらす世界の変容を妹視点の書簡体で描いた「ホーリーアイアンメイデン」だろう。彼女の能力は戦前の日本で一種の軍事利用をされていくが、作中では一貫してその原理は明かされない。
 では、その欠落する説得力を、どのように埋め合わせているのか? 
 伴名練が「集中」するのは、クライマックスでの盛り上がり――「視覚的な」と言ってもいいかもしれない――である。未読者のために詳述は避けるが、「シンギュラリティ・ソビエト」や「なめらかな世界と、その敵」などで提示される劇的なラストシーンを描くために、伴名練は(1)で述べた形式や登場人物の造形・関係性、物語全体の構成を逆算して設定しているのではないだろうか、と思わせる。宮崎駿や新海誠といったアニメーション監督が映像の力でストーリーの"粗"を消し飛ばし、映画全体に謎の説得力を与えるのと同様に、伴名練はガジェットの説明抜きにSF小説を成立させる。
 だが決して「勢いだけで押し切っている」と言いたいのではない。伴名練はその劇的効果のために、ありとあらゆるところまで気を配り、全要素を制御下に置いた上で、短編という形で物語を出力している。例えば「シンギュラリティ・ソビエト」では無数にちりばめられたシンギュラリティ到達下での共産主義小ネタが改変歴史SFの読みどころとして大いに作用しているし、「なめらかな世界と、その敵」では「乗覚」という並行世界を自在に行き来できる感覚を持った語り手を設定しつつも、女子高生二人の関係性を軸にライトな青春物語として仕上げることで物語に一本の筋を通している……など、最後に最高速度を出すための助走としてのディテールには、最大限の配慮がなされている。
 オキシタケヒコ氏が言うように、伴名練の書く物語は、因数分解していけば基本的に(1)SFファンが飲みながらぶつけ合うような馬鹿話のネタ(2)気恥ずかしくなるほど純粋である意味病的ですらある二者間のリレーションシップ、で形成されている。このうちの(2)については、「選択と集中」の結果、物語るための最適解として二者間の関係性を軸に据えるよう導き出された結果(注2)だと言えるのではないだろうか。短編という形式をいかにハックし、いかに読者に面白がらせるか。そうした研究の成果が、伴名練作品だと言えるのかもしれない。

3.さいごに

 以上、収録作品に触れつつ、伴名練について論じてきた。はじめに述べたように、本作に収録された作品はほとんどが同人誌初出で、後に年刊SF傑作選に再録されたものの、常にバラバラの状態でしか読み得なかったものだ。それらが今こうして1冊の本として結実し、多くの読者の手に届くものになったことは、伴名練ファンの一人として、そして京大SF研の後輩として、大変嬉しい。
 だがしかし、冒頭に挙げたエピグラフでの"檄文"のように、伴名練にはまだまだ倒すべき相手がいる。伊藤計劃も円城塔も、決して著作は2冊だけではないし、決して短編しか書いていない訳ではない。
 そして、伴名練作品が過去の作品群へのオマージュを多分に含んでいるのならば、逆の立場になること、すなわち伴名練自身がオマージュの対象になることを覚悟せねばなるまい。手に取りやすい形でまとまった今なら、なおのことだ。
 つまり、私が言いたいのは——

みんな、伴名練を倒すことを、忘れてはいないか?


 伴名練、新作はまだか。


(注1)『小松左京賞・日本新人SF新人賞・奇想天外SF新人賞総解説』(カモガワSFシリーズKコレクション、2015年)より。その後伴名練によるブックレビューを再録した総集編『稀刊 奇想マガジン 号外』(同上、2019年)にも収録。
(注2)収録の6作中実に4作で同性間の関係性が軸に据えられている。また、残りの2作「美亜羽へ贈る拳銃」「ひかりより速く、ゆるやかに」では、男女の恋愛が主たる駆動力として物語を牽引している(「ひかりより〜」は男女とは言い切れないと伴名練は朝日新聞のインタビューで述べているが、個人的にはかなり苦しい言い訳だと思う)。


(記・くじらい)

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