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これは無個性です

はい、ただいま。クソ野郎。

感情表現だとか、自己表現だとか、そういうものは「何も持っていない人が、何かを持っているのだと信じるためのツール」だと思えてきた、という報告です。やっと。
要するにブーメランを投げるために遊びに来ました。

* * *

私は「個性的なものや人間」に憧れるタイプだ。
それによって何を得たいのかも有耶無耶に、漠然と「自分から見て『個性的である』と判断した人間」を真似してきた。
真似しといて、型を探しておいて「個性的」とかバカじゃねえの。

しかし、自分が今まで『個性的だ』と思った人間も含めて、全ての人間はどこかで誰かの真似をしているはずなんだよな。

「個性」とは多分、本来は「素の状態」であり、「まとう・身につけるもの」ではない。
私が「意識して『紫のもの』を集める」のは「個性付け」にはなるが、意識している時点で、本来の「個性」ではない。

またその定義に則ると、「『ありふれたもの』の対義語」でもない。
ただし私が憧れたのは、「ある集団の中で目につくもの」を指す意味での「個性」っぽい。

定義はわからんが、今どきは「個性」という語を使うのがビジネスの流行りっぽい。よく釣れるのだろうか。

多分、私の言動を左右するのは、自分が「大勢」を認識するか、しないか。
その素材がなくともできることが、感情表現と自己表現だったというだけ。
無意識に、希少になろうとするのかもしれない。そういう(ふうに見えた)人に憧れたから。まだ私は続けるのだろうか。何も持っていないくせに。

他の人間の存在があるから「アイデンティティ」を保とうとするのに、他の人間の存在で「アイデンティティ」が死ぬの、ホントわけわかんねえな。

乙。