拝啓、背景さま

少し昔の話で、仕事でミスを犯してしまい、これをきっかけに「背景」について考えることがあった。

ミスというのは、他店ヘルプのスタッフの女の子が、相談事を抱えていて、私がアドバイスしたら、次の日、上司から、「ヘルプ先の店舗から電話があった」と呼び出され、「相手の背景の理解なしに、そのアドバイスはストレートすぎる」と指摘された。

どんな正論でも、どれだけすごい成功者が語ったハウツーでも、その人の背景を知らない前だと、ただの否定になる。ビジネス書が多くの人に読まれているのは、活字を手段に取っているからこそであって、表情や声のトーン、口調に気を取られることなく相手に伝わるし、受け入れやすいからだ。そんな当たり前を、20数年生きててようやく理解した。ある意味、ショックだった。

それでは背景とは?背景ってなんだろう。

人はよく、新たなプロジェクトのプレゼンや、大学の卒業論文で、必ず「背景は何か」を呈示される。

英語にするとバックグラウンド、言い換えると、背後?

背後だとしたら、その人が後ろを振り返った時に見える、今日まで歩んできた道のり=背景だとしたら、なんとなく意味が掴めてきた。

後ろを振り返ったとき、特に景色が変わらない、ということがある。

でもそれは、平坦な田舎道だったとか、平凡な人生の象徴などではなく、間違いなく自分が見て、聞いて、味わって、泣いて、笑って歩いてきたのは確か。けれど、過去の出来事や会った人、行った場所をさっぱり忘れていることが多く、「何もなかったかぁ」とぼやき、それがやっぱり「過去にとらわれない人」と評される。

就活面接のときも、「成功体験は?」と聞かれ、なんと言えばいいか分からず、とりあえず過去にあったことを思い出す限り話してみたら「それじゃん!」と言われることもたまにある。

したがって、過去の出来事が、楽しかったのか、苦しかったのか、成長につながったのか、「どうだった?」と聞かれると一瞬、返答に困る。ビジネス書のコピーにある「成功者」「成功した人」って何を意味もって指すのだろう?それに至るまでの「険しい道のり」というのは、見た目は華やかではないが、終わらせるのに時間がかかるような名前のない「やるべきこと」に取り組み、極たまに、新プロジェクトや新企画にも着手をするが、単に大風呂敷を敷いただけにしか見られないような、いわゆる「無名時代」のことなのか。

けれど、名前のない生活の中に、ささやかな幸せも隠れていたりする。不幸中の幸いに出てくる幸せは、恒常的なものよりも偉大だと思う。3日に一度食べるハーゲンダッツよりも、めちゃくちゃ疲れた日、人がおごってくれた、自販機のコーヒーのような。

小さな幸せを噛み締めて進んでいくと、いつの間にか、自分の仕事や活動に名前がつくようになり、生活にも目を向けられるほど安定していくようになる。さらには経済的余裕も生まれ、自分の身体にも気を遣って、思い通りの姿を描けるようになるかもしれない。ここで、後ろを振り返る時間も確保できるようになるのだろう。これが「成功」なのか。確かに、思い描くゴールとして、理想といえばそうだが、総合的に、これは幸せなのか?

なんだか「幸せ」のワードを使い過ぎたせいで、ふわっとし過ぎました。こういう文章って書いているときは夢中にだけど、数年後、この文章を見た時に、肩甲骨あたりがむず痒くなるのかなぁ。

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