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最近のこと

あっという間に6月。2024年も半分終わったなぁなんて他人事のように
思ってしまう。最近、時の流れが早い。これも年を重ねたからなのか、なんなのか。

今年4月に転職をした。社会人になって、3回目。
会社員だったら多いんだろうけど、なにぶん福祉業界の人間なのでと社会に言い訳する。
今の仕事には満足している。お給料もよく、なにより人間関係が安定している。いじめもないし、いやがらせも自他ともにない。なによりみんなが仕事している、ってところに感動する。やっぱり、お給料がいいところのほうが、余裕が生まれるし、安定している人間が集まるのかしら、なんて職場を思い出しながらぼんやり思う。

体力的にも精神的にも安定しているからか、趣味を楽しむ余裕ができてきた。前職場でのときは、本当になにもやる気が起きなかった。金銭的にもギリギリな生活だったからということもあるけれど、出かける気力もなく、なんとも言えない時間を過ごしていた。
きっとあの時の私には、「なんにもしない時間」が必要だったんだと思うけれど。それで人生いいのかと言われれば、悲しいなぁと今は思う。そのときは、なんとも思わなかったけど。

休みのたびに予定がある。楽しい。

もともと、私は展覧会(現代アート)に行くのが好きだった。美術のびの字もわからないし、専門的な勉強をしたこともない。アーティストの名前さえ分からないし、覚えられない。そんな人間だけれど、「表現されたなにか」を感じるのは好きだ。
正直言うと、観に行ったとしても、人の手によって「表現されたなにか」は、理解なんてできてない。いや、本当に1パーセントもわかっちゃいない。ときには、「私にはなんにも解釈できない」なにかもある。それでも、みにいくのだ。わかった顔をしながら、作品を眺めるのだ。

アートを観に行く。私にとってその行為は、アーティストによってつくられた「表現されたなにか」をどう解釈するのか、を考える場だ。作品の隣にあるコメントは読み、それを踏まえて「私はこう感じる」、を考えていく。
時には、アーティストの思いと異なることもあるだろう。でも、そんなこと気にしていない。だって、そこにアーティストはいないのだから。
作品がアーティストの世界なのであれば、それをまるっと眺める世界は私の世界だ。それをSNSで発信することも、だれかに伝えることもない。私の解釈は、誰も傷つかない。だから自由でいいのだ、と思っている。

私の解釈を生み出すことは、世界に私を感じる行為なのだろう。
広い広い世界の中で、確かにあると自分で自分を確認する行為。


今月も、いろんな展覧会に行く予定を立てた。楽しみだ。
そんなとりとめもないことを書きながら、日曜日の夜が過ぎていく。


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