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松浦佐用姫と卑弥呼宗女壱与!

 唐津の鏡山に登ったのは10月も終わりの頃だった。づっと昔登った記憶があるが、誰と何時だったかもう記憶が薄れてしまっていた。この頃はあまり歴史とか興味は無かった頃である。
 文化財保護のNPOを立ち上げ、町おこしから地域の歴史に立ち向かうことになったのである。郷土史研究会にも所属し役員にもなり論文も随分書いてきた。松浦佐用姫は「弁財天」(化身)と聞いていたが改めて調べてみると
意外な所に行き着いてしまったのである。

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    鏡山にある「松浦佐用姫」の銅像と鏡山神社

松浦佐用姫の伝説の多さ

 佐用姫には、古代の記紀、中世の平家物語、太平記、近世の太閤記、松浦古事記、など50を超える文献・伝承・石碑といった膨大な資料がある。(近藤)とにかくありすぎて、しかも内容は同じではないので混沌としてくる。

 先学に、松浦さよ姫伝説の基礎研究 「古代・中世・近世編」( 近藤直也)がありこれらをきちんと分類・整理・分析が成されている。ただ私が知りたかった肝心な所が漏れているのである。それは「佐用姫の出自」である。まずは彼の話を聞いてみよう!(要点を簡略化してある。)

さよ姫の初見

 旅人の書簡を読んで啓発された憶良の歌として
松浦がた 佐用姫の児が 領巾振りし 山の名のみや 聞きつ居らむ
これ以前は無い。とされその後旅人は、天平二(730)年大納言昇任のため大宰帥を辞して帰京する。
この時憶良は十二首を旅人に献じている。五首が佐用姫を詠んだものだと言う。

神功祭神説の崩壊

「和歌色葉」(1198年成立)さよ姫が松浦明神として鏡宮に祀ると記載されている。
「古今著聞集」(1254年成立)連続して登場する。

「神功皇后祭神説」は、「詩琳采葉抄」(1366年)の誤解、「河海抄」(1367年)の意図的誤解 への誘導によって「皇后の勑祈(うけい)による鏡石化譚がいつの間にか袖振山に改竄されるのであった」

 つまり鎌倉時代に逆のぼると神功では無く既に松浦明神なので、神功説はその後となり元々は神功では無かったと言うことになる。(重要

田島神社のさよ姫

「松浦昔鏡」「松浦拾風土記」に加部島の田島神社(田心姫、市杵島姫、湍津姫尊)への遷宮経緯では1367年から1400年代末ころまでは松浦岩(さよ姫岩)として祀られていた。

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さよ姫厳木説

「松浦拾風土記」から初唱され、新しく決して本来的のものではなかった。風土記の弟日姫子が、万葉集の山上憶良によって松浦佐用姫と詠みかえられた。その理由については創世神話としての「蛇交譚」に求めているようだが少々疑わしい。

松浦古事記による出自

 寛政元年(1,789)成立で著作不詳とされる古文書である
松浦郡篠原長者の娘佐用姫とあるが風土記の原文では「篠原村の弟日姫子となっており篠原長者の初見は松浦古事記である。としている。(近藤)
さて『松浦古事記』中段は、次の通りである。
 人皇四十五代聖武天皇神亀四丁卯(七二七)年、玉津島大明神神祇官に託して宣はく、日の西に篠原の長が娘佐用と云う貞女あり、米なる者の入唐を悲しみ死す、其姿霊石と成れり、万代の亀鑑とも成るべし、今詔を申下し之を祭らしかべしと也。此時より世挙て佐用姫の神社と崇む、仍て田嶋宮の末社と称す。佐用姫宮の社僧立雲寺不浄を忌めり、さるによつて衰微し寺号のみにて滅せんとするにより、則ち波多相模守固の代に、加部・加唐・馬
  渡の三島一統に此立雲寺の檀家に附せられ、之より此寺も繁栄して今龍源禅寺の末山となりしなり。夫より社僧をはなれ神職にて引受け奉幣し、世に佐用姫の神社と三島の檀家と替へたりと俗説すること是なり。
 中段は、前段と大きく流れが変わり、玉津島神社の託宣から始まる。この神は和歌山市和歌浦に祭られ、古来和歌の神として崇敬された神であるが、なぜ神祇官にさよ姫の事をわざわざ託宣(※神の告げ)しなければならなかったか不明である。(近藤)

このように、「篠原長者の娘佐用姫」では心許ない。和歌山の玉津島神社
実はあの卑弥呼と関係がある神社で娘の卑弥呼宗女イヨ(稚日女尊)を祀る神社で夫は孝霊天皇で二人の子に「吉備津彦」(桃太郎伝説)がいる。
 なぜ佐用姫のことを託宣したのか、ここに出自秘密の一端が隠されて居るのである。

磐井の乱の後

磐井の乱は下記の簡易年表のように527年で

磐井の乱  (527年)大伴金村、物部麁鹿火を将軍に任命
       大伴の子-磐、狭手彦、糠手子、大伴阿被比古、宇遅古、咋
佐手彦任那派遣 (537年)新羅が任那を侵攻したため、朝鮮に派遣され      て任那を鎮めて百済を救った
肥前国風土記(732~740年成立)では弟日姫子
万葉集   (783年)ごろに大伴家持の手により完成したとされる
和歌色葉  (1198年成立)さよ姫が松浦明神として鏡宮に祀られると記載
古今著聞集 (1254年成立)松浦明神

継体天皇と磐井の争いである。継体は大伴が擁立したと伝わり、磐井の乱後、その子狭手彦は任那に派遣されている。下記のエピソードがある。

日羅と言う人のエピソード
 二十八代宣化天皇の時代(6世紀半)に新羅が任那を侵略しようとしたとき、大伴金村の息子狭手彦と共に任那へ行き、任那がなくなった後も、そのまま百済へ留まって帰化した日本人、阿利斯登(ありしと)の子供で、父親と一緒に百済に留まり、二位達率(だちそち)という極めて高い位まで昇った人物である。三十代敏達天皇の詔で583年に帰国、任那復興策の意見を求められる。しかし、その内容は百済の筑紫侵攻策を暴露し、自身の祖国・百済を裏切ることとなり、結局、日羅は同行した百済の役人徳爾・余奴に命を奪われてしまう。

筑紫松浦の家系系図の再発見

 さて、ここに大分の阿部家に伝わる古代豪族の「系図」がある。(三巻ある。)久々知族研究で調査中に偶然「再発見」したものだが、どんな不完全な資料も一掃するような驚きだった。それが次系図である。

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ちゃんと松浦佐用姫、大伴金村・佐用姫・佐手彦が記載されている。孝霊-稚武(吉備津彦)-松浦佐用姫である。つまり佐用姫の祖母こそ卑弥呼宗女イヨなのである!!
 だからこそお祖母ちゃんに結婚を報告し「玉津島神社の託宣」を受けたのである!

参考

鏡山の弁才天嶽
さて、「弁才天嶽」が登場するが、その内容は従来とは全く異質であり、独特の存在感を醸し出し、辺りに異彩を放ち続けている。さよ姫論を展開する上で、是非注目しておかねばならない一節の一つである。明暦二六五五~二(五八)年間の話であるが、鏡宮と鏡山に参詣した一人の旅の僧がいた。

 この僧は、地元の農民等に弁才天嶽はとこにあるかと尋ねるのであるが、農民は知らなかった。そこで、僧は農民等に摺振山の西に位置する「少し坐咼き山あるを弁才天嶽と云」うのだと教える。更に、そこには軸物(この軸物とは、説教節『まつら長者』所載の「法華経一巻」の反映であろう)と剣が納められている事を告知する。僧がこれらの情報を一体どこで仕入れたのか、言及が無いため全く不明である。弁才天の化現としてのさよ姫が、僧の夢枕に立って教えたのであろうか。
鏡山の西にある小高き所と言われた農民達は、当然高さ八間余りの松浦岩を思い浮かべ、さっそくそこへ渡り、軸物と剣を埋めたと覚しき「あやしき処」を発見する。鍬でそこを掘り返してみれば、石製の管が出土した。その石管の蓋を開けてみれば、中には僧の予言通りの太刀一振・軸物一巻が入っていたが、その他に青銅か赤銅製の抹茶の容器状の物「中次」に人っていた。
僧は、この太刀・軸物こそが狭壬彦の形見としてさよ姫に与えたものであり、姫が摺振山で舳を見送った後、田島の峯(余童岳のことか)に移動してさらに船を見送るうとした時、途中で弁天嶽に登って形見の品をここに隠したのだと教える。さらにその後、鏡村の村人達が形見の品を発見し、粗略になるのを恐れ石筥を作ってここに埋めて安置し、この上に小社を建立して弁才天として崇め祀ったのだと僧は説明するが、「中次」の事は知らないと言って立ち去るのであった。

<参考資料>
●松浦さよ姫伝説の基礎研究 「古代・中世・近世編」 近藤氏
●豊後阿部氏の伝承 安部氏

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