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「デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション」 考察

異常な世界観
まず最初に私がこの作品に抱いた感想は「異常」であった。この「異常」とは何も悪い意味ではない。というのも作者が読者に「面白い!」であるとか「楽しい!」といった、普通の漫画家が目指すような作品を、そもそも目指していないように思わせるからだ。次々に現れる普通ではない状況設定に戸惑いながらついていく読者を嘲笑うかのように思えるのである。また本作の「デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション」というタイトルからも容易に普通ではないことが想像できるだろう。
この物語では、異星人の侵略を受けた後の世界が描かれている。異星人の乗ってきた飛行物体の母艦が東京上空に静止し、それがいつ動き出すのかが分からないという状況の中、主人公の小山門出とその友人である中川凰蘭(高校生)の日常生活が、まるでジェンガのブロックを1つずつ抜いていくかのような静けさで、徐々に壊れていく姿をその画力と共に見事に描き出している。最初は設定を理解しながら読み進めることに多少の退屈さを覚えるが、その退屈さを吹き飛ばすほどの展開が待ち受けている。前述した概要からも分かるように、ハートウォーミングな話ではない。小山門出、中川凰蘭と行動を共にする仲良しグループの一人である栗原キコは、自衛隊による攻撃で異星人の中型船が市街地へ墜落した時に、それに巻き込まれて死亡した。このようにメインキャラクターがあっさりと死んでしまうリアリティは、読者にもまるでその場にいるかのような臨場感と緊張感を与える。


人間より弱い異星人×異星人より怖い人間
普通我々は、「異星人」と言うと足がタコのようで顔が化け物じみた生き物を想像するだろう。しかしこの物語は違う。この作品の異星人は二頭身程の大きさで顔は丸く、ヘルメットを常に被っているような見た目で、どちらかと言うと「かわいい」という印象をもつものになっている。そしてその見た目に沿うように、人間に見つかっては追い回され、否応無く危険と見なされ殺される弱々しい生き物として描かれている。なおかつこの「異星人」は一体一体違う個性や性格を持ち、見た目以外は人間と何も変わらない。また地球に侵略したものの、そこに住む人間に仲間を殺されていく哀れな「異星人」目線の世界を描くことで、人間は「異星人」にとってもまた恐ろしい「異星人」であるという隠れたメッセージを読み取ることができる。人間の方がよっぽど残酷な生き物であると感じさせられる。
この物語では、異星人が混在する異常な世界において、人間達はまるで生まれた時から異星人と共存していたかのようにその日常生活を送っていく。また、自衛隊や民間の兵器会社が最新兵器により異星人を抹殺していくシーンや、それを一般市民がまるで他人事のように傍観している描写が多く見られる。これは、本当に異星人の侵略を受けた時に、人間は意外にも傍観者意識のままで普通の生活を続けるであろうという、何においても危機意識の少ない我々現代人へ、作者が作品を通してアンチテーゼを唱えているように思える。


徹底されたリアリティ
この物語には、その後の展開を左右するようなキーパーソンが何人か登場するのだが、その一人一人のストーリーも物語全体と共に同時に進行していく。そしてそのキャラクター達が物語の進行と共に徐々に変貌していく姿が生々しく描かれ、そのさ変貌ぶりから作中の切迫した空気感がダイレクトに読者に伝わる。総じて、この「デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション 」という作品は読者をその場に居合わせているような感覚にさせる。
また作中では「異星人」擁護派と排撃派の二つのグループの対立が描かれている。作品を読んでいるうちに、いずれかのグループに自然と肩入れして読んでいる自分に気付く。この時点で既にこのリアルな世界に引き込まれているのかもしれない。
何度も言うようだが、この作品はとにかく「リアル」なのだ。自分達が生きる現実世界に酷似しているからこそ、その「異常性」にそそられるのかもしれない。この「リアル」は他の漫画作品にはない独特な雰囲気を放っている。

その圧倒的な画力
この漫画の大きな特徴の1つと言えるのがその画力である。時折映り込む、実在する建物や風景などの背景描写に作者の徹底的なこだわりを見ることができ、それにより読んでいる側もよりこの作品のリアルな空気に触れることができる。細かい背景描写を基本スタンスに据えているのかと思い物語を読み進めると、実はそれだけではないことに気付く。というのも、リアルな描写の中に明らかに不釣り合いな“ドラえもん風”なタッチの猫や人間が描きこまれているのである。これはこの漫画のシュールさと作品の魅力でもあるその「異常性」を醸し出す一因となっていると私は感じる。まだ物語は完結していないため、絵の工夫にどのような意図があるのか明確ではないが、物語が進むにつれてその意図が解き明かされていくかもしれないと、ソワソワしながら読んでほしいという作者の思惑があるのかもしれない。

ストーリーから浮かび上がる作者の批判
この物語の所々に描かれているメインキャラクター達の恋愛は、「非日常」における「日常」をより際立たせていると感じた。具体的に言えば「異星人が侵略した世界」における「人間の日常生活」である。上空に浮かぶ母艦の下で繰り広げられる人間模様は一見奇妙に思えるだろう。しかしいつ何時地球が崩壊するかもしれないという直接的な危険が目視できる形で存在する時、人間は非常に素直にその感情を表し、恋愛模様もより一層色彩を放ち、切ない恋愛はより切なく、胸を踊らせる恋愛はより躍動的に、読者の目に飛び込んでくると私は思うのだ。「異星人」による地球崩壊の予兆を敏感に感じる者やそれを楽観的に捉える者の展開する恋愛が、対照的に描かれることで「異星人」の侵略の「影」と「光」の部分も同時に考えさせられる、この作者の手法にはあっぱれと言わざるを得ない。
「異星人」の侵略による「影」と「光」は本作において政治、経済など様々な所に見え隠れしている。
まずは政治である。国民からの信頼や期待が薄れた国は、決まって関係のないところに的をつくり、国民の注目をそちらに向けさせ一体感を取り戻す。本作では首相を中心に、政府が国民の注目の的を全く別のところに向けさせるというシーンが存在する。作者はその的を「異星人」に置き換えて、現実世界でのそのような国のやり方を遠回しに揶揄しているのではないだろうか。新兵器による「異星人」の撃退や自衛隊の活躍を必要以上に大々的に報道する描写などからも、この見方は一応の説得力があるだろう。また東日本大震災の時に、嘘か本当か分からない信憑性にかける情報が全国に出回った。この作品では同じように、国民が真偽不明な情報に踊らされるという場面が描かれている。「A線」と呼ばれる「放射線」を思い起こさせるような物質に怯える人達もいれば、嘘だと思い全く動じない人達も存在するのだ。また「異星人」が襲来した日付から、本作ではその日が「8.31」と呼ばれている。
これもまた東日本大震災の「3.11」を思い起こさせるような表現であり、作者が東日本大震災のようなカタストロフィをモチーフにし、なおかつそのような事態に陥った時の国民や政府の姿勢を批判する意図があることは想像に難くない。


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