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つるの恩返し(読まなくていい)

※今回の記事は普段以上に下らなくて意味のない話です。長々と書いてしまったので費やした時間がもったいなく思えて一応公開しますが、はっきり言って読まなくていいです。

こんにちは。
いつの頃からか「つるの恩返し」という昔話を素直に受け取れなくなってしまいました。
だって考えてみてください。
仮に自分が鶴で、罠にかかって死にかけるような目に遭ったら、まず人間という動物にに対して「ふざけんなよ!」という感情で身体中が満たされるのではないでしょうか。
私が鶴なら絶対に放送禁止用語を心の中で連発するはずです。
そのあとでまた別の人間(お爺さん)が現れて罠を解いてくれたとしても、その場はきっとパニックです。なんなら荒ぶった鶴の私はお爺さんに攻撃するかもしれません。
だから、どうして鶴が罠を仕掛けた側の人間に対してわざわざ恩返し、しかも自分の羽根を使うというかなり身を切るような方法をとってまで恩返しをしなくてはならないのか理解できないのです。
かなり人間に都合の良い解釈です。
人間のエゴが前提になりすぎているように思えて、お伽話として捉えることすらままならなくなってしまったのです。

そもそも物語に出てきた鶴は、罠を仕掛けた人間と助けてくれたお爺さん明確にを区別できたのでしょうか?
仮に人間を区別できるのだとしても、もしかしたら罠を仕掛けたのがお爺さんだった可能性だってあるし、鶴的にはやはり人間への憎しみが募ると思うのですが、これはただ私がひねくれすぎているだけなのでしょうか?

「つるの恩返し」の主旨はそこじゃないよ、という指摘はわかります。
ただ、罠にかかっているのを助けたら家まで恩返しに来るという部分が、人間本位過ぎるように思えて、その問題をクリアしないことにはそこから先へ進めなくなってしまいました。

わかりやすくするために、人間と鶴を置き換えて話を作ってみます。
鶴とお爺さんを入れ替えると、例えばこんな感じでしょうか。

むかしむかし、お爺さんがひとり、家路へと雪の中を歩いていました。
すると突然、1羽の鶴が飛んできてお爺さんに襲いかかりました。
お爺さんは突然の襲撃になす術もなく、くちばしで顔や首を突かれて、大怪我を負ってしまいます。
「狂った鶴が出た!助けてくれ!」
お爺さんは大声で叫ぶものの、あたりには人っ子一人いません。
そのあいだにも鶴は容赦なくお爺さんの皮膚をついばんでゆきます。
いよいよ目玉でもえぐり出されるかと死も覚悟したその時、突然どこからともなく別の鶴が現れました。
その鶴Bは、凶暴な鶴Aとお爺さんの間に入って鶴Aの襲撃をやめさせました。
鶴同士はなにやら甲高い声を上げてしばらく争いかけますが、やがて鶴Bの懸命な説得があったらしく落ち着きを取り戻します。
落ち着いた鶴たちは程なく同時にどこかへと飛び立ってゆきました。
お爺さんは羽ばたく2羽の鶴を眺めながら、あとから来て助けてくれた鶴Bにひざまずいて感謝の祈りを捧げました。
恐らく鶴Bが来なければお爺さんは死んでいた事でしょう。
傷ついた体を引きずってなんとか家に戻ったお爺さんは、じきに元気に回復したのでした。
めでたしめでたし。

お爺さんが罠にかかっている鶴を助ける部分までを、鶴とお爺さんの立場がなるべく逆になるように書いてみました。
鶴がお爺さんに罠を仕掛けるのは現実的ではないから、1羽が凶暴でもう1羽がなだめるという話に置き替えました。
話のつくりは下手くそかもしれませんが、話の構造を逆にすることに関してはある程度できているのではないでしょうか。

さてこのあと、お爺さんは鶴Bに対して恩返しする気になるでしょうか?

・・・なんかですね、読んでみると案外鶴Bに感謝するのかもしれないという気がしてしまいました。

なんだこれ。

でもですね、仮にこのあと身を切ってお爺さんが鶴に恩返しをする話にまで繋がるのであれば、そのお爺さんは元々とても慈しみ深い、優しくてストイックで心の綺麗なお爺さんなのではないでしょうか。
だから元通りに置き換えて想像すると、「つるの恩返し」に出てきた鶴も、そもそもが特別心優しくて恩義に厚い鶴だと言えるのではないか。
その前提がある上でなら、納得出来なくもないかなぁ、という気もしてきてしまったのです。

なんだこの記事。

まあしかし、真面目に考えだすと、細かく不可解な部分も含めて語り継がれているからこそ、国を代表するお伽噺として愛され続けているのでしょうね。
というまとめ方で一応体裁を整えて終わります・・・。

今回の教訓はなんでもかんでも書き進めていけばいいというわけじゃないということです。
自分馬鹿だな、というのが今回の結論です。

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