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36歳で手に入れた絵の具

カチカチカチ……

カタカタカタ……


秒針の音に追い立てられるようにキーボードの音が慌ただしく響く。


カタカタカタ……。

キーボードの音が止まる。

それでも秒針は待ってくれない。

無情に時を刻一刻と刻んでいく。


「ああ、今日も間に合わなかった……」


これが4月にライティング・ゼミを受講し始めてからの毎週月曜日、
23時頃の私だ。


間に合わなかったのだから諦めて寝てしまえばいいのだが、変にハイになってしまい、そこからずっと書き続けて、結局寝るのは3時、4時。

もちろん翌日は朝から仕事。


こんな様子だったので、始めた当初は、いつかぶっ倒れるのでは……と本気で不安だった。私は昔から、人よりも睡眠が必要なタチで寝ないと、てきめんに体調を崩してしまうからだ。

ああ、こりゃ大変なこと始めちゃったな……

と安易に手を出したことを悔やんだ。


そもそもなぜ、ライティング・ゼミを受けようと思ったのか。

それは単純に、文章が書けないことに気がついてしまったから。


ヨガインストラクターになってから、仕事でブログを書く機会が増えた。

それまで、自分で気が向いた時にブログを書くことはあったが、誰かに見られることを前提として書くのは初めてのことだった。


とはいえ一応、国分学科を卒業していたこともあり、自分では文章がそこそこかける方だと思ってタカをくくっていた。


ところが、いざ書いてみると、自分で書いた文章なのに、一体何が言いたいのか全くわからない。考えれば考えるほど書けなくなって、自信はガラガラと音を立てて崩れていった。


そんな時に、たまたまイベントで訪れた天狼院でライティング・ゼミが行われていることを知り、気がつくと申し込んでいた。


今まで、書くという行為にこれほど向き合ったことはなかった。

2000字書こうと思ったら、これまでのように思いついたことを気ままに書いていたのでは到底足りない。


そうそうネタがあるわけもなく、そしてそのわずかなネタを膨らませる技術もない。文字数をクリアするためには、自分の事を書くしかなかった。


初めはここまで自分の過去をさらけ出していいものかどうか悩んだが、背に腹は変えられなかった。


とにかく自分というものを徹底的に掘って掘って掘り下げていった。

ここ数年で、自分と向き合うという行為はある程度やってきたと思っていたが、まだまだだった。

そして書けば書くほど、忘れていた過去の感情が生々しく蘇ってきた。


以前の私は、とにかく自分が大嫌いで、いつもオドオドと人の顔色を見ていた。その一方で、今の、この姿は仮の姿で、本当の自分は周りとは違って特別で、本気出したらすごいんだ! という、全く根拠のない自信のようなのものもあった。


一見、この二つの感情は矛盾しているようにも見えるのだが、「本気出したらすごいんだ」という感情は、そういう条件付けをすることで、全然特別でもなんでもない自分の逃げ道を作っていただけにすぎなかった。

要は自分に自信がなく、なんの取り柄もなく平凡な自分が大嫌いだったのだ。


だから真実が露呈しないように、私は本気になることを徹底的に避けてきた。本気を出して失敗したら、大嫌いな今の自分の姿が本当の自分であることを証明することになってしまうからだ。


都合のいいことに、私の母親は私が失敗しないように、逐一指示を出し、私がその指示を遂行できないと判断すれば、代わりにやってくれる人だった。

母の指示に逆らいさえしなければ、本気を出すことはおろか、自分で考えなくても物事はスムーズに進んでいった。


本気も出さない、自分で考えない人生は、とても楽だった。

失敗した時には「本気出してないし」とか「お母さんがやれっていったからやったのに」とかいくらでも言い訳することができたからだ。


しかし、同時にとてもつまらなかった。

本気でやっていないから、もちろん達成感もないし、私がやりたいことをしていたわけではなく、母が私にやらせたいと思っていることを、あやつり人形のようにやっているだけだったからだ。


母が描いた絵に紙を重ねてひたすらなぞっているだけ。

もう完成図は見えている。やる前から結果が分かっているのだ。

ワクワクするはずもない。

ただただ淡々と30年以上も写し絵を続けてきた。

あのまま写し絵を続けていれば、きっと私の人生はある意味平和に、だけども、とてつもなく退屈に続いていったのだろう。


しかし、私は私の中の、もう一人の自分の存在に気づいてしまった。


もう一人の私は「もう写し絵はしたくない。私のキャンパスには、私が自由に絵を描きたいんだ」とずっと叫んでいた。

その叫びを聞くことは、自信がない自分、本当は特別でもなんでもない自分と真正面から向き合うことを意味していたから、ずっと前から気がついていたのに、目を背け、耳を塞いでいた。

写し絵を続けている限り、平和な人生は保証されるからだ。


だけど、その叫びは年を経るごとにどんどん大きくなっていき、ついには悲鳴に変わった。もうこれ以上無視することは不可能だった。


写し絵を辞めた私の人生は、そこから大きく変わった。

お手本の絵を描いてくれていた母はうつ病になり、その9ヶ月後には亡くなった。

途方に暮れた私の目の前には、まっさらなキャンパスだけが残された。


何しろ30年以上も写し絵しかしてこなかった人間だ。

初めは絵の描き方はおろか、何を描けばいいのか、どんなもので描けばいいのかすらわからない。

もうこうなったら失敗など恐れてはいられなかった。


わからないことだらけだったから、周りの人に助けてもらったり、色々調べてみたり、勉強してみたりと、とにかく必死だった。30歳を超えてから、初めて自分で自分の人生を描き始めたのだ。

それはそれは大変だったし、自分の無力さを嫌という程思い知らされた。


でも、その一つ一つが自分の絵を描くための道具や力になっていった。

今まで感じたことのない苦労だったけれど、同時に今まで感じたことのないワクワクでもあった。


そうしてやっと今、見よう見まねで、でも写し絵ではなく、自分の絵を少しずつ描き始めた。


ゼミを受けてきた4ヶ月間、課題として提出した、どの作品にも「嫌いだった昔の自分」と「母」のことが出てくる。今まで見て見ぬふりをし続けできた、もう1人の自分と、これでもかと言う程に対峙し、気づいていなかった感情がたくさんあふれ出てきた。


母と私の関係は、お互いの足を引っ張り合うような依存の関係にあった。その関係を正常に戻すことは叶わず、結果的に母の死で強制終了してしまったことが、どこか引っかかりながらも、直視できずにいた。

もう乗り越えたこととはいえ、やはり辛い思い出には違いないからだ。だが何について書いていてもやはりそこにたどり着くのだ。


これには正直参ったが、結局そこから逃げているうちは前に進めないし、何より向き合って書かなければ,課題が提出できなかったから、半ば強制的ではあったが、腹をくくって向き合うことができた。


そうすることで、なんの取り柄もなく平凡だと思っていた自分が、私なりに悩み、苦しみ、努力して生きてきたことがわかった。

母は亡くなってしまったが、そうすることで病気の苦しみから解放され、私の為に絵を描き続けることからも解放された。同時に私も写し絵から解放された。

あの時の私たちには、あの選択が唯一で最善のものだったのだと思う。


大嫌いだった自分を少し好きになることもできたし、母の死を前向きに捉えることができるようになったことは大きな収穫だった。


文章の書き方を学ぶつもりで受けたゼミだったが、それだけにとどまらず人生の絵の描き方までも学ぶことができたのは、睡眠不足と戦いながら続けた甲斐があったと、よく考えず安易に手を出した、4ヶ月前の自分を褒めてやりたい。


ライティング・ゼミは、私にとって、少しずつ形になってきた自分の絵を、もっと鮮やかに彩るための絵の具のようなものだったのだと思う。


まだまだ色の種類は少ないが、モノクロだった私の絵は、このゼミで手に入れた絵の具で、格段に生き生きとしてきた。


「人生が変わるライティング・ゼミ」


この看板に偽りはなかった。


せっかく色づき始めた、この絵をここで終わらせるのか、さらに色を追加して、彩り豊かなものにするのか、それは私次第だ。


言うまでもなく、まだまだここで終わらせる気はない。一体どこまで色を増やしていけるだろう?そんなことを考えていたら……あ、また3時を過ぎてしまった。自由自在に色を操れるまでには、まだもう少し時間がかかりそうだ。

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