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区切りの日に、さみしくて想ったこと。

私にとってはなんてことのない1日でも、今日は区切りの日。

慣れているつもりでも、やっぱり去っていく人に「ありがとうございました、さようなら、お気をつけて、身体を大切に、ほどほどにがんばってね」というのはさみしい。
今の時代だからつながり続けられるけど、新天地に向かう人たちには新しい生活が待っている。

わざわざご挨拶に来てくれた方と言葉を交わすと、特にさみしく感じてしまって、ふとこの1年を振り返ってしまった。

世の中は、ほんとうはつながりたかったけど、いろんな、ちょっとしたなにか(遠慮とか恥ずかしいとか緊張とか面倒とか)で、きっかけを作れないままつながれなかったモノコトヒトに溢れてて、あちこちで、忖度と誤解と憶測による哀しみに溢れているなぁと。

その哀しみは「哀しみ」という顔をしていなくて、多くは「怒り」「疑心」「不審」「無関心」の顔をしている。
今日は、その誰にも気づかれない、無意識下にある哀しみたちが、たくさん流れ込んできて(ような気がして)、ふいに切なくなってしまった。

泥だらけになっていたり、濡れていたり、トゲトゲになってしまっているそれを拾い上げて、手を汚したり「イテテ」とか言ったりしながら、手で包み丸くしてつなげられたのは、本当に少しだけだった。
なんなら丸くなってなくて、五角形くらいでしかなかった。

それでも、明日からは新しい日常の初日が始まり、そのための準備をする大学生たちにチャチャを入れてると、あたたかい未来とつながっている気がして少しだけ気が紛れた。

しかし、世の中には、というかこの街には、というか私の知らない私の周りには、相変わらず「哀しみ」が転がっていることに、無関心ではいけないんだろうなぁ。

来年度も、きっとそういう誰にも気づかれない哀しみを拾い上げて、ぽっ、と昇華させ「あれ?さっきまでここになにかあった気がするんだけど、なんだったっけ。気のせいかな」といわれるような仕事をしていくんだろう。
というかしていきたい、というか、

できたらいいなぁそんな仕事が。

ヒトコトでまとめると、
たださみしい気持ちなだけのエントリー。
こんなセンチメンタルな日は、
ポエムと小説の続きを書くに限る。

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