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大学の先生たち③ ~教授たちの世代交代。効率的な人が生き残る~

こんにちは、黒都茶々と申します。
現在は定職(not研究職)についておりますが、かつて大学院の博士課程というものに在籍しておりました。
前回は大学の先生の教育に対する姿勢や大学院生との関係性などを書かせていただきましたが、追加でもう少し、教授たちと時代の変化について、私が見聞きした範囲でお伝えしたいと思います。

教育の世界でも世代交代が始まっている

いろいろなイノベーションが起こるのと同時に、私たちの生活はどんどん変わっています。私たちの社会・日常を構成する「お仕事=労働」についても同様で、ちょっと前には、今ある仕事のほとんどは、100年後にはなくなっているという記事も読んだことがあります。

研究というのは、これまでにないものを発見する知的作業なので、すべてがAIにとって代わられるということはまずないでしょう。しかし、仕事の変革はもちろんこの業界でも着実に進んでいて、それは教授になれる人の種類の変化という形で現れているように思います。

私が在籍していた時代に教授としてラボを率いていた人々は、前の記事にも書きましたが、「職人」タイプの人がとても多かったと思います。私の所属していた生物系の研究室だと、生き物が好きで興味深く思っている、というのが大前提として先生の情熱のコアとなっていて、研究をするためにお金が必要で、そのために論文を書くタイプの人が多くいました。多分こういう人は、自分に入ってくる給料がそれほど高くなくても、研究が自由にできるんだったら文句ないんだろうなぁと思います。論文を書くのも、自分が研究をしたことを社会に還元するための義務感、あるいは、自分の発見を他の研究者ともシェアしたいという希望を実現するための手段の一つとしてとらえているのではないかと私は想像しています。

しかし、この研究スタイルの難点は、効率が悪いことです。自分で全ての実験をやってしまうので(つまり、実験系の確立からデータ収集、論文書きまで)、一つのことが終わるまでに時間がかかります。こう書くとネガティブなように聞こえますが、試行錯誤する上で新しい現象を発見したり、一人の人が目の前のことに集中して取り組むので、研究者自身が得るものは大きいと思うので、私はこのスタイル自体は好んでいます。しかしやっぱり、アウトプット(=業績。論文や学会発表)に行きつくものでカウントすると、労力の割には小粒なものになってしまう場合が多いのが事実だと私は感じています。

こんなやり方で生き残っていけるのか? 昔はできました、みーんなそうだったから。でも、現代では、当然、生き残っていけるわけがありません。現在教授職の椅子を温めている一部の大学の先生は、大学職員として採用されて、パーマネントだから今も教授をできているだけです。この人たちが退官してしまえば、古き良き職人気質の研究者は絶滅危惧種になることでしょう。

研究以外の産業も同じだと思います。手間暇かけて、職人が作った唯一無二のお皿より、100均で売っている量産型のお皿が売れるんですよ。そういう時代なんだと思います。

効率重視の若い教授たち

古き良き職人たちが現場を退き、空いた椅子には誰が座るのでしょう? 答えは、いろいろなことを手広くやるコミュニケーション能力に長けた若い研究者たちです。

この人たちは、当然ですが、研究を推進していく能力が高いです。研究室という組織のトップとして、目標(論文を出す、業績を上げる)達成のために、自分で自由に操作できるリソースを効率よく分配します。研究室同士のコラボレーションも大好きです。分野を越えて、化学系と生物系のミックスラボを立ち上げてみたりします。

このタイプの教授たちは、職人というよりは、職業としての研究者、という言い方がしっくり来ます。こういう人はタフで、競争を勝ち抜くのが上手いです。多分、ポスドクとして競争するのが普通で、それに勝ち残れなかった人たちは研究界から引退していく時代を生きてきた(そして勝ち残ってきた)人たちなんだと思います。

メディア露出も好きな人が多いです。一般向けのインタビューなんかも嬉々として答えるし、ラボのホームページも充実していたりします。

研究スタイルで見ると、作業を細分化してテクニシャンに任せる方式が多いように感じます。あるいは、学生を1テクニシャンのように使い、その人はその操作のプロフェッショナルになる、というのも多いかもしれないです。やりたい実験があると、その技術を持っている人をポスドクとして雇ったり、その実験ができるラボに実験を外注(共同研究)して結果だけを手に入れたりもします。できない実験があると、試行錯誤するよりもきっぱり諦めて新しいアプローチをします。

職人たちよりも、効率がいいです。論文もたくさん出るし、お金もたくさん入ってくるし、先生は出世できます。こういうスタイルの若手の研究者が、今、たくさん教授になっている気がします。

そういう時代なんだと諦めるべきか?

職人技の研究から、効率重視の研究へのシフトが進んでいることについては、そういう時代なんだからしょうがないんだなと思います。なんとなく、アメリカスタイルの研究の進め方に近くなってきているのかもしれないですね。

ただ、これは本当に個人的な感想でしかないのですが、職人タイプの研究の進め方の方が面白いですよ、研究している人間にとっては。私は、大学4年生のときの指導教員が今どきの研究者で、修士、博士の時のそれぞれの指導教員は古き良き研究者だったのですが、どちらの方が研究をしていて楽しかったか、と聞かれたら、修士、博士の方が楽しかったと自信を持って答えます。(修士の時の先生とは喧嘩して絶縁状態になってますが。)

職人スタイルで、研究は最初から終わりまで1人で責任もって遂行するスタイルだったので、修士のときの論文も、博士のときの論文も、共同研究者はかなり少ない方だと思います。博士のときの論文なんて、著者2人(私と先生)だけですからね。

4年生の時は、自分が駒として使われているのを感じました。実験で出た結果について私がどう考えたか、というのは大して重視されず、先生が論文を書くために必要な数字、絵を作るために実験をしていました。自分からやりたい実験を言い出しても不要と言われ、都合の悪いデータはなかったことにされ、きれいなストーリーを説明する数字だけが表に出されるのです。結果は出ますが、楽しくはなかったですね。

それに対して、修士の先生も、博士の先生も、「もうちょっと私の実験考えてくれませんか」と思うくらいに自由にやらせてくれました。実験器具もお手製だったし、解析する指標も自分で勝手に設定して、本当に実験系の立ち上げからやらせてもらえました。不安も大きかったですが今思えば楽しかったと思います。ちなみに、博士論文になった研究は、私が一人で実験の合間に進めていたおまけのテーマでした。(メインの実験は結果が出ない袋小路に行ってしまったので、日の目を見ていない。)そういうおおらかさというか、適当さから、面白い研究って出てくるんじゃないかなっていう気がしているんです。


以上、「大学の先生たち③ ~教授たちの世代交代。効率的な人が生き残る~」をお届けしました。弟子の立場から見た教授たちの様子、時代の流れについてつづってみましたが、いかがだったでしょうか? 書けば書くほど、これって研究室の話じゃなくて、普通の会社と同じだなぁ~、と思いました。なんだか、研究職というものをちょっと神聖視しすぎてたみたいですね、私自身が。

次回は、「研究室の構成員たち いつも研究室にいる人たちは何者なのか?」をお届けします。研究室に生息している人々について、かつてその一人だった私が解説いたします。

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