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博士課程に進んだ理由と、研究者にならなかった理由【前編】

こんにちは、黒都茶々と申します。
現在は定職(not研究職)についておりますが、かつて大学院の博士課程というものに在籍しておりました。

前回は博士課程の学生が大変だと感じることについて紹介しましたが、今回は私が博士課程に進学した理由と、その後研究職ではない職業を選んだ理由について書き残したいと思います。(ざっくりした私の進路は、過去記事をご参照ください。)

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なんとなく理系を選択。

高校の理系科目の中で生物の成績が良かったこと、さらに、生物学の分野の中では神経が一番面白そうだと感じたので、理学部の生物学科に入って神経の研究をすることにしました。
人間がどうやってものを覚えて忘れるのか、記憶学習の臨界点はどう規定されているのか、などなど、脳って装置として考えるとものすごく謎に満ちていて面白いな、と思ったのです。

その程度なんですよね~、動機なんて。

人間(の頭の中)についての興味はずっと持っていたので、もし文系を選択していたら心理学をやっていたと思います。
ただ、高校生の文系理系選択のとき、英語が死ぬほど苦手だったのと、文系科目より理系科目の方が好きだったので理系を選択してしまい、今に至ります。
(ちなみに、英語はラボに入ってから避けて通れなくなったので、英会話教室に自腹で通い、今は日常会話はできるくらい。英語は、理系に進むのなら必須スキルです。)

なんとなく研究者を目指す。

ラボに配属されて思ったのが、研究って、努力が結果に結びつく良い仕事だな、ということです。これまでやってきた研究を調べて、そこから次やることを選んで、実験して、結果を出して、発表する。「自分の研究」っていうのも、生きた証を残せる感じで格好いいなと思ったんですね。
(研究者って実は結構なギャンブラーですが、この時は安定していて社会的信用度の高い職だと思っていた。)

あとは、私は研究の発表をしたり説明したりするのが割と上手だったらしく、先生たちが期待してくれてるっていうのが分かって心地よかったんだと思います。

まぁ、そんなこんなで、自分も楽しいし先生たちも応援してくれてるし、研究者になるぞ~、と決めていたのが大学4年生くらい。

修士のときも、研究方針や指導のことで先生と揉めてはいたものの、就活は全くしませんでした。
自分が一般企業に勤めている姿が全く想像できなかったっていうのと、研究室での実験は楽しかったので、こんな生活をずっとできれば御の字かなと思っていたので。

あと、私には同じラボに同期(博士課程に進学することを明言していた)がいて、こいつよりは優秀だぞという自負があったので、こいつが進学して私がしないなんてありえねぇ、と思っていた部分もまぁありますね~。(書き起こしていくと、私嫌なやつだな)

なんとなく限界を感じる

研究者というものに魅力を感じなくなったのが明確にいつだったのかは忘れましたが、博士2年の中盤くらいに、「研究者なるのか、私?」と疑問が生じます。

ひとつは、研究に限界が見えてしまったこと。もうひとつは、自分の研究者としての適性とポスドク問題です。

1つめの研究についてですが、これは日本の研究業界に限界を感じたということです。

当時の私は、国際学会に何回か参加して、世界のレベルを見てきたところ。
この、海外(特にアメリカ)の財力とネットワーク力はすさまじいもので、これと私が対等に戦っていくなんて無理だなと感じたのを思い出します。
日本だと、各ラボが個々に研究をするスタイルが一般的ですが(今は変わりつつあるのかもしれませんが)、アメリカは複数ラボが協力して一つの課題に取り組むのが当たり前で、しかもその協力の仕方が、研究分野の垣根を超えたものなのです。
私が当時いた分野だと、生物系ラボが工学系研究者と組んで顕微鏡の開発からやっちゃうんですね。
こんな顕微鏡あったらいいな~っていうのを、「代わりにできる範囲でここまで調べました!」っていう日本と、「顕微鏡作って計測したよ!」っていうアメリカ... そりゃ日本負けるわ。 

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そんなアメリカビッグネームが名を連ねる研究チームに対する私はと言えば、ラボでこの仕事に取り組んでいるのは私と先生と後輩の3人だけで、当然専用の顕微鏡なんてないので、一部は隣のラボに借りに行き、一部は(多少カスタムしてあるものの)普通の顕微鏡で、機能を実装できない部分は人力、という状況。
この状況は嫌いではないし、その時の研究テーマから言えば妥当なセットアップだったと今でも思いますが、アメリカの財力と技術力には圧倒されました。はい。

そんな研究業界の中で、自分が生き残っていく道として考えられる方法①は、アメリカに渡ってアメリカで研究者になるという道。
しかし、アメリカの研究は超絶大所帯なので、自分ができる仕事は多分ほんの一部です。
1から10ある研究ステップの中で、自分が担当したのが1だけなんてむなしいじゃないですか。
私は(上の文章でネガティブに書いているものの)日本式研究手法はパーソナリティーに合っていると感じているので、機械の一部みたいに実験するのは嫌だなぁと思ったんです。

方法②は、自分が日本で研究グループみたいなものを作って(あるいは参加して)、アメリカにも負けないような結果を出すというもの。これも、あまり現実的でないような気がしています。
そんな人脈私にはないし、作れる気もしないし、研究費は全体的にがつがつ削られるし、そんなレベルに上り詰めるのに何年必要なのよ?と正直思いました。

ここまでが、研究について、見えてしまった限界です。

もうひとつのポスドク問題というのは、単なる私個人の能力としての限界ですね。

これも、学会に参加させてもらったから分かったことなんですが、「私レベルの優秀さの人間なんて腐るほどおるやん」ということに気づいてしまったんですよね。
私より結果出してる人も、私より説明が上手い人も、私より英語が上手な人も、同級生(なんなら年下)で腐るほどいるんですよ。
で、この人たちが卒業したら、同じ土俵で戦わないといけないわけです。
え、勝てるの? って感じですよね。

私は飛びぬけて優秀ってわけでもないし、大御所に強いコネクションがあるわけでもない。ただでさえ万年ポスドクが問題になっている中で、私は勝てるか?と。

いや、そんな自信ありませんって。


以上、「博士課程に進んだ理由と、研究者にならなかった理由【前編】」をお届けしました。長くなってしまったので、後編へ続きます。

次回は、【後編】。自分が研究職としてやっていくことが難しそうだ、と思った私がどう動いたのか、ご紹介いたします。

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