「冬の果実」~宮沢賢治『銀河鉄道の夜』を読んで~

 ずっと、これは真冬の物語だと思っていたのだが、それには幾つかの理由がある。都会育ちの私にとって美しい星空と言えば、空気が澄んだ冬に見えるものだから。記憶に残る幾つかのキーワードが冬を連想させるものであったから。「ラッコの上着」「氷山にぶつかって沈没した船」「リンゴ」「白鳥」などなど。(りんどう」は銀河の野原に咲く幻の花だと思っていた。)川に落ちて45分経過した時点でカムパネルラの生存が絶望とされたから。そして、凍えるほどのカムパネルラの孤独。
 
 物語の主人公であるジョバンニは、学校で周囲と馴染めない様子や父の不在、病気の母を支えながら働いていることなどが描かれて、重荷を背負った子どもであること、息苦しい日々を送っているであろうことが、読者に明示されている。銀河鉄道というひと時の夢に迷いこむほどに。けれどジョバンニのような子どもは案外とたくましく、現実を生きていけるものだ。対して、カムパネルラの孤独はどうだろう。
「銀河鉄道の夜」をはじめて読んだ時、私は、川に落ちたザネリを助ける為に飛び込んだカムパネルラの行為は、限りなく自死に近かったのではないかと感じた。(マルソの言葉「カムパネルラが川へはいったよ」は、意味ありげではなかったか)
 明白に死を求めたのではないにしても、溺れかけた時、どうあっても助かろうという意思がカムパネルラにはなかった。広い意味での自死。だから彼は天上に行けなかったのではないかと。旅の終わり、カムパネルラがジョバンニの前から消えた後、からっぽの席で黒いびろうどばかりが光っていたという描写は、少年がそらの孔に消えて行ったことの暗示のようだった。

 ジョバンニとカムパネルラは幼なじみであり、今でも友人ではあったけれど、その想いは少しずつすれ違っていた。ジョバンニはそれを、自分の仕事がきつく学校に来てもぼうっとしてしまい、カムパネルラとも遊んだり話したりしなくなったせいだと思っているのだが、二人のすれ違いはそのことだけが原因でなく、カムパネルラの側にも事情があったのだろう。それが何であったのか物語から読み取ることはできないが、死者の汽車に乗るだけの理由が彼にはあったのだ。
 カムパネルラは友に助けを求めることはなかった。ジョバンニの言葉「僕たちしっかりやろうねえ。」にも「「カムパネルラ、僕たち一緒に行こうねえ。」にも、カムパネルラは応えなかったのだ。
あんなに近くにいたのに、ジョバンニとカムパネルラは同じ汽車に乗ってはいなかった。

 物語の季節が冬だと記憶していた理由の一つが、カムパネルラが川に落ちて45分で、父親が息子の生存を諦め、周囲もそれを受け入れたことだ。お祭りでボートを出すくらいだから川が荒れていたということはなかったと思われる。真冬に、凍てついた水に落ちたというならともかく、季節は夏なのに。
「もう駄目です。落ちてから四十五分たちましたから。」
 カムパネルラの父親は、どうしてそんな風に言ったのだろう。息子が戻らないことを、彼はとうに知っていたかのようだ。川に落ちたと聞いた時ではなく、もっとずっと、ずっと前から、息子が感じている生き辛さに気づいていて、いつか旅立ってしまうことを覚悟していたのかもしれない。銀河のいっぱいにうつった川下を見つめる父親の背は、切なく胸に残る。
 物語の最後、ジョバンニの姿はそれとは対照的だ。走り出す彼の胸にあるものは、失った友ではなく、母と、近く帰還する筈の父の姿である。ジョバンニは今日も明日も、はるか先の未来まで、現実を生きていくのだろう。星空に一人、友を残して。