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ハーヴェステラをクリアした

※ネタバレしかないです

自我が芽生えた瞬間をあなたは覚えているだろうか。
私は覚えている。いまでも忘れられない。
小学生の時分に、モンシロチョウの飼育実習をした時のことだ。
羽化が終わり、空になった虫カゴを洗いなさいと先生に指示される。
腐ったキャベツをほぼ捨て終え、いよいよ水でそのカゴを洗おうとしたそのとき。中にはまだモンシロチョウの幼虫が残っていたことに私は気づいた。
しかし、こどもの私にはその幼虫をどうすればいいかわからなかった。既に他のこどもたちは、カゴを洗い終えて教室に戻っている。
廊下には私とその幼虫しかいなかった。
カゴの隅に張りつき、小さくなっている幼虫を見ても私は何も感じず、面倒くささすら感じた。先生に指示されたことは虫カゴを洗うことだけで、私は早く指示を終えて、皆のいるあたたかくてさわがしい教室に戻りたかった。
けっきょく、私はその小さな幼虫を水道に流してしまった。
仕方がなかった。もう実習は終わり、こどもである私は一人で畑に行ってその幼虫を逃がしてやることもできないし、そもそもその幼虫は農家の方から害虫扱いを受けて譲り渡された生き物なのだ。
強い水に打たれ、為す術もなく、水道を流れていく小さな幼虫。白いもちもちが、ぐるぐると水と共に回り、排水溝に流れていく様子を見て、私はとつぜん胸につよい痛みを感じた。

それが私の自我の始まりだったと思う。
喜怒哀楽はもちろんあったが、倫理観といったものを当時の私は持っていなかった。だから、あれが私の幼年期の終わり、そして私の始まりだったと記憶している。

初めて自分の意思で生き物を殺した記憶。
それが私の始まりだ。
いまでもあの光景を忘れられない。私は命に妥協したのだ。めんどうくさい、指示されていない、という理由で1匹の生き物を、しかも幼体を殺した。
まだ幼く、世の中の苦痛を経験していない私に、その苦痛は耐え難いものだった。
気が狂いそうだった。あの経験が、私の根幹を成しているのを感じる。生き物すべてに優しくしないと気が済まない。どれだけ後悔して、やり直したくても、殺した命は帰ってこない。

きっとソルバスの自我も、そこから始まったのだろう。
深い悲しみと罪の記憶、けれど自我がそこから始まった者にしか理解できない物事だ。
私が大人になったいま、この事を他人に話しても変わった人間だと評されると思う。あるいは極端に傷つきやすいと言われるかもしれない。またはすごく優しい人なんだね。と言われるかもしれない。
モンシロチョウの飼育は、学校で決まっていたカリキュラムでそこに私の意思は介在しない。
だから仕方ないという人もいるだろうし、人間を殺した訳でもないのにと思う人もいるだろう。それこそが、この悲しみの根源だ。癒されない悲しみの記憶を、誰にも懺悔できないのだ。
レーベンエルベたちは成人した人間の姿形の躯体に、人格をインストールされる。そしてデータベースと共有意識群(共有知への接続)がプリセットとなっている。
一見して人型、かつ大人なので私たちは無意識に彼らを人間である自分たちの常識や、感覚で理解しようとしてしまうだろうが。実際は、物凄く賢いこどもなんだと思う。そして、こどもは喜怒哀楽を持っているが、自我に目覚める瞬間やタイミングは千差万別だ。
人間に似た高度な存在が、人間を家畜のように管理しているように見える。しかし、おそらく状況としてはもっと他人事だと思う。
自我が目覚める前の、こどもの私たちはモンシロチョウの幼虫を畑から攫ってきて、カゴに閉じ込めても何も感じないと思う。ただそれが使命、というかやるべきことなのでモンシロチョウを飼って、羽化させようとすると思う。モンシロチョウがどういう生態かは本に書いてあるが、モンシロチョウと私たちは別の生き物なので、何が彼らの幸福かは知らない。彼らと直接喋れるわけでもないしね。
自我が目覚めているわけでもないが、意識があって知性のあるこどもたちが、教室の中でモンシロチョウを羽化させようとしている。
これがレーベンエルベたちのやっていることなのだと思う。家畜を育てる大人たちは、家畜たちの痛みを理解し、愛しているし、なんなら家族として接していると思う。失う痛みもよくわかっていると思う。搾取している側の理不尽もよく理解していると思う。
だが、こどもは違う。こどもにそんなことはわからないし、誰も教えてくれない。
そんなふわふわとして曖昧で、傷つきやすく、痛みへの耐性が極端に低いこどもが、とつぜんモンシロチョウの痛みへの共感力を得て、なおかつ自分がその弱々しくて無害な愛らしい存在に手を下したことに気づいてしまったら……それは想像を絶する痛みだと思う。
そして、たとえそれに傷ついたところで……周りにいるふわふわとした膜の中で過ごしているこどもたちにこう慰められるのだろう。仕方が無かった。間引きをしなければそのモンシロチョウは餌を奪い合って、死滅していた。
こんなに悲しいことがあるだろうか。
こんなにも孤独なことがあるだろうか。
ガイストの気が狂ってしまったのも、負の感情への耐性が低かったからではないかと思う。
そして、みんなにも経験は無いだろうか。ふとしたときに、周囲の存在がものすごく汚らわしいものに思えるというか、たとえば性について知ったとき、見知った存在だった両親がチンパンジーのようなものに見えてしまったり。
心を持ってしまったガイストにとって、家族だったレーベンエルベは急に見知らぬ誰かに思えてしまったのかもしれない。レーベンエルベ流のイヤイヤ期、もしくは反抗期。もちろん、倫理汚染をふせぐために共有知を切った側面もあるのだろうが、それ以上に見知った友人たちが得体のしれない、自分とは違う生き物に見えてしまったとして果たして、孤独なままその状況に耐えられるだろうか?
カリステフスの発言からもわかるが、共有意識に繋がることは彼らの自我を保護する役割も果たしている。
共有知を切ることは見知らぬ街に、とつぜん一人で放り出されるようなものなのではないだろうか。
弱くて無力な、守るべき存在の死から始まり、自我に目覚め、他者の苦しみを知る。そして夢を見て、希望を追いかける。
ディアンサスは度々、作中で描かれていたレーベンエルベたちの大人になった(自我に目覚めた)が故の苦しみをすべて味わっていたと思う。
そもそも彼女は、ガイストの見る夢に魅せられ、それに流されていた存在だったのだと思う。どうもレーベンエルベたちは、魔王事件といい、やはり主体性が薄く、危うい。こういうところもこどものようだ。
心に目覚めた寄る辺ない彼女を、彼女の指針であり、愛を向けられる存在だったはずのガイストは拒絶していた。こどもたちの兄貴分だった存在に、夢を真っ向から否定されるのは辛かったと思う。
これらのことから、彼女はおそらくアリアと対比して描かれている存在だろう。
アリアは「生まれたときから人類の希望として、諦めることを許されずに、両親の背中を見て育ってきた。ところが、両親は楽園を構想し、死季根絶への頑張りをムダなことだったと定義してしまう。そして、両親は楽園のために死んでしまっていた。」
レーベンエルベたちもまた箱庭に囚われた存在であり、人類の希望を一心に背負い続けている。そして死期根絶を目指していたガイストは、死期根絶を真っ向から否定するようになってしまった。親に存在意義を否定されたようなものだと思う。
人類とレーベンエルベ、アリアとディアンサス。
そもそもがガイアの祈りと、リ・ガイアの祈りは対になっているし、やはりわざと似たような境遇として描かれていた気がする。
久々に良いゲームを遊べて、興奮して殴り書きしたけど清書がめんどうくさい。
とりあえず言いたいことは、レーベンエルベは見た目と知能より幼い存在で、それはディアンサスのキャラストーリーのタイトルからもわかる事だと思う。
ゲームが終わってから、レーベンエルベがかわいいので色々考えていたら、幼少期のトラウマにぶち当たってソルバス……となって気づいたら筆をとっていた。
ものすごく苦しかったと思う……人類はガイアへの仕打ちもそうだけど、残酷すぎる。無自覚とはいえ大人という導き手のいない賢いこどもたちに、成功するまで蠱毒させてたんだからね……。
きちんとゲームをコンプリートしたら、今度は何か考察を書くかもしれない。

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