「麦わら帽子の影」
草むらの匂いが、昼過ぎの空気に重く滲んでいた。小川の近く、膝上まである雑草をかき分けて、悠太はゆっくりと歩を進める。腰には使い込まれた虫取り網、そして汗で濡れたシャツの襟元からは少しばかり泥の匂いがする。
風はほとんど吹いていなかった。麦わら帽子のツバを抑えながら、悠太は背の高い茂みの間から空を見上げた。青一色の空。けれど、そこに揺れる細かな影がひとつ。悠太は一瞬息を呑み、足を止めた。
カナブンだった。羽音がかすかに聞こえる距離まで、悠太は静かに近づいていく。緑色の光沢を持つその背は、陽の光を浴びて、まるで小さな宝石のように輝いている。彼の指先が網の柄をゆっくりと握りしめる。風の流れを読むように、彼はじりじりと間合いを詰めた。
カナブンは不意に飛び立った。悠太の網が宙を切り、バランスを崩した彼は草むらに転がった。湿った土の感触が手の平に広がり、彼は短く息をついた。まだ草の間を揺れながら飛んでいるカナブンを見上げ、少しの間だけ目を細めた。
遠くから、子供たちの笑い声が風に乗って聞こえてくる。田んぼの向こう側、木立の陰に姿を見せた何人かの子供たち。誰かが何かを叫んでいるが、言葉の意味ははっきりとは取れない。悠太は彼らに目をやることなく、再び網を持ち直して立ち上がった。
小川のほとりにはオニヤンマが一匹、じっと水面を見つめている。悠太は、網をゆっくりと構えた。オニヤンマは悠太の存在に気づいていないかのように、じっとその場に留まっている。水の表面に映る青い空と、翅の薄い影が重なり合う。悠太の喉が一瞬乾いた。
網が振り下ろされた瞬間、オニヤンマは鋭い軌道を描いて飛び去った。悠太の網は再び空を切った。淡い灰色の翅が、日光を反射しながら消えていく。悠太は舌打ちすることもなく、そのまま小川にしゃがみ込んだ。手を水の中に沈めると、冷たさが心地よい。指の間から流れる水の感触に、ほんの少しだけ心が緩んだ。
ふと、背後で足音がした。振り返ると、いつの間にか一人の少年が立っていた。見慣れない顔。彼は何も言わずに、ただ悠太をじっと見ている。麦わら帽子をかぶったその少年の手には、小さな木製の虫かごがぶら下がっていた。中には、まだ幼いカブトムシが一匹、じっと動かずにいる。
「それ、捕まえたの?」
悠太がそう尋ねると、少年は頷いた。彼の顔には感情の欠片も浮かんでいない。悠太は無言で立ち上がり、虫かごを覗き込んだ。カブトムシの角がゆっくりと動く。
「いいね」
そう言うと、少年は軽く頭を下げ、そのまま足早に田んぼの方へと歩き出した。悠太はしばらくその背中を見つめていたが、やがて視線を草むらに戻した。何かが動く気配がしたからだ。
低い草の影から、クワガタがひとつ現れた。黒く光るその身体は、何かを探しているかのように、ゆっくりと歩を進めている。悠太は再び網を構えた。今度は、失敗しない。
太陽が低くなり、麦わら帽子の影が長く伸びる頃。悠太の網が、静かに揺れた。
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