内心嫌な思いをがまんしながら接客してくれているとしたら……

某SNSでの話題を元に、一度だけちょっと深く考察するだけの文章です。
ただし、今回は、首記の内容について書かれた某知恵袋の「返答」の内容にかこつけた、ただの自分語りです。

夜職の嬢がもし、首記のようなことを考えているとしたら云々、という問いに対し、
「なんか勘違いしてないか当然だろお前ら99%はキモい人種だわ」
という、実に的確な返答をされていた回答者さん。
そりゃそうだよな、という同意をしたい、と私も思いました。

若い頃のことですが、私もほぼほぼ、初対面以下の、「素性の知らない」状態の人間は、男性も女性も全て、いや、7:3で女性という人種の方が「気持ち悪い」存在でした。
そこから、挨拶を交わしたり、少しずつその人のことを知っていくに従い、「気持ち悪い」存在から、居ても気持ちが騒がない、好意はないが不快もない、という存在へと、だんだんと移り変わっていく。
そういうものだと思っていたし、そんな自分が人と比べてどうだろう、という疑問をさして持たずに成長しました。

今では、介護、という仕事をしている影響か、赤の他人の家にいきなりお邪魔し世間話をしながら、その人の生活を直視する、という繰り返しの毎日にさしておののきもなく、他人に対して妙な不快感を感じることもなくなりました。
その代わり、親しい関係にまでなる、ということも非常に少なくなりましたが。人間なんて一皮剥けば野獣である、という認識をさらに色濃くした、という面もあります。
なにより。
自分の親を看取った五年間、という月日が、なおのことその印象を強くしております。両親とも理知的であり、道理が通じ、融通が利かないという不満はあれど話が通じない、と認識したことは若い頃はありませんでした。が、これが老齢も最後のターンに入り、身体が利かない、認知が問題を起こす、それゆえの不満からあり得ない言動を発す、それに文句すら言えない。言ったってたぶん分からないし、少なくとも現状打開されることはない。無駄。
そういう諦観から、自分もまた年を重ね老齢の域に達したらああなるのだぞ、という強烈な刷りこみを受けた、そんな感じです。

ただ、今回の話のメインは人間の老齢期のそんな話ではなく、若い頃に私が抱いていた、「赤の他人に感じる気持ち悪さ」について掘り下げて行きたい、と思っております。

世の男性は、女性に対し、美人なら気持ち悪さを感じず、美人でなくても好意をどちらかというと感じ、××な人であっても「不快」はあれど「気持ち悪さ」を感じることはない、ということを、私は小説や友人の話題や今まで話してきた人たちの会話のそこかしこから学びました。
そしてそれは、自分にとって意外なことでありました。

昔から、私は女性に対し、若干、ではありますが、そうしたうっすらとした「不快」というよりは「キモさ」を感じている自分を知っていました。
それが、話をしたり、相手の素性が分かるにつけ、その「キモさ」は、だんだんと感じられないほど薄くなり、既知になれば普通の人間として相対できる、という感じで。
じゃぁ男性はどうかというと、他人という「不快」はあれど、「キモさ」はなかった。しかし、親しくなるにせよ、性的な魅力を感じることはなく、素直に自分は女性にその魅力を感じていたので、多分自分は性的マイノリティではないのだ、と思っています。

男には感じないキモさを、女性に対して感じてしまう。
故に私は、逆もしかりであろう、と長く思っておりました。
実際、女性は、男性に比べて異性に対する抵抗感が高く、首記の嬢の方もそうであるように、好きになる異性を除いた99%の男性については、不快な「キモさ」を感じているとのこと。
私はその気持ちが分かったわけです。なので、自分のようなキモい人間が話しかけることすら相手の女性にとっては不快だろうなぁ申し訳ない、という気持ちが常に去来しており、自分から積極的に異性に話しかける、ということはあまり、ありませんでした。

…………いや。順番が違いました。
もう少し掘り下げてみると、中学から高校にかけてはそうでもなかった。
その頃に、異性については手ひどい失敗をし、そこから注意するようになった、というのが正しいかも知れない。その頃は、ある女性とのコミュニケーションが実に発展していたときで、自分自身「調子に乗って」いました。
なので、「自分が相手にとって不快であろう」という注意を怠っていた時期でした。あのころ話しかけた女性の皆様、すみませんでした。悪気はありませんでした。

この心境を、「コミュ障」……コミュニケーション障害の一種、と片付けるのは簡単ではありましょう。
ただ、人の思考として、「いったん自分に引きつけて、自分の立場から相手を考える」という思考法を一般生活で頻繁に取り入れている以上、引きつけて考えた自分という者の心が、一般性とずれた異常性あるもの、という状態では、この思考法が使えない、無意味ですらある、ということになります。

それゆえ、果たして自分のこの心境はどこからきっかけを得、どういう経緯を経て精神に沈着したのか、その素性を知りたい、とは思っています。
この年になって結論がでないものを、ましてや今では摩耗して感覚が鈍磨しているような感情を、探って答えを出そうとすること。それ自体が愚かな好意かも知れません。

さて。
この話がいったいどこへ落ち着くか、というと、昨今話題のLGBTQのお話へと着地するのです。
人と自分が、一般的である人と一般的でない自分の性向が、違っている、ということの恐れは、様々な社会との齟齬や軋轢を生じ、ことによると精神を思わぬ泥沼へとひきずりこむきっかけとなる、ということを言いたいのです。

社会は、個人のそのような異常性にたいし、いちいち理解を示すようなことはありません。いや。表面上取り繕うことくらいはしてくれる人はいるでしょうが、それは個人個人の好意、という熱量によってまかなわれているだけで、社会がそれにたいしなにかをしてくれるわけでもないのです。

そういう異分子は出来れば消えてくれと思っている、というのが社会というものの正体です。

そのような味方のいないエリアで、自分というものを保つべきか、いっそ放り出して嘘をつき続けながら慣れるのを待つか。
個人にはこの、重要な選択がつねにつきまとっています。
どちらにせよ。
社会は手を延べてはくれません。語り継ぐムーブが過ぎ去ったら、また各々の問題は、まるではじめから無かったかのように忘れられていくだけです。
個人はさまざまな問題を抱えており、他人の問題に口を挟んでいるひまはない。最終的な問題解決は個人の裁量に任されている。

そのようなとき、自分だったらどうだ、という思考法が使えない苦しみを、どうにかして上手に解きほぐす、その方程式が欲しい。

そんなことをまだ、思っていたりします。

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