「女だけの街待望論」と、その実現性

「女だけの街」待望論は、わりと最近の話題かと思いきや、2018年ごろから活発化しはじめてきたようだ。

ちなみに、これに対する男側からの返答としては、「インフラは?」とか、「力仕事は?」とか、予想通りのものが返ってきて、女だけの街待望論を広げた女性たちはさらなる怒りに震えているという。

そもそも、この話題は古くから吟味されてきた。
筒井康隆のSF短編に、「女性だけの街……というより、女性が政治の上に立ち実権を握った街が崩壊する」話がある。昭和の作品なので、今読むと女性蔑視に鼻白むこと請け合いだが、このような作品が出来上がるくらいには、女性は昔から男性を嫌悪していたことが分かるというものだ。

ここでは、そんな上っ面の回答ではなく、もう少し突っ込んでこの問題を吟味していきたいと思う。

さて。
最初に考えることは、実は「女性だけの街」というのは、「男性だけの街」と比較するならば、ずっと実現可能性がある、ということだ。
男性にとっては残念な話だが、これはおそらく事実に近い。

なぜなら、生物の根幹である、「生殖と繁殖」を考えた際、男性だけの街は崩壊することが必然である(妊娠出来る成体がいない)のに対し、女性だけの街においては、精子を冷凍保存さえしておけば、繁殖の問題をクリアできるからだ。
しかも、その精子については「優秀な固体のみを選別する」という過程を経れば、より優秀な子孫を残せる可能性がある。
ただ、「男が生まれてきた場合」は、街の存続問題に発展するような、ちと面倒くさい事態が発生しそうだが。

生殖の問題は、当面クリアできた。
では単純に、社会の維持管理が可能であるか、だ。
力仕事においては、女性は男性に比べて不利である。これは事実だ。
ただ、女性は男性の力を「越えられない」わけではない。そのへんの一般男性が女子プロレスラーと戦って勝てるか、といえばそんなことはない。訓練を経れば人間の潜在能力は上昇する。女性が男性に力で劣る、という文言は、あくまでも「平均値」の話で、鍛え方や向き不向き、あるいは女性の上位層と男性の平均層を比べたならば、この前提は容易に覆る。

だが、「可能である」ことと、「(維持に)苦痛がない」こととは別問題である。
女性は、「子供を作り、産み、育てる」つくりに体が構成されているため、
「体調がよい時期」と「体調が悪い時期」が交互に訪れる。
男性並、それ以上の筋力をつけることは、「不可能ではまったくない」が、男性そのものと比べたならば「非常に不利」なのは間違いのないところだ。

なので、男だけの街にくらべ、こと力仕事に関して言えば、女だけの街は非常に不利な体勢にあることは、疑わなくてよいだろう。

体調が比較的一定で、生まれつき筋力があることが保障されている成体を「使わない」というプロセスは、社会を構成する上で不利が有利を上回る。

ただ、女だけの街待望論者が求めたのは、そういう結論ではないはずだ。
彼女らの論の根幹はおそらく、
「その不利を甘受してでさえ、男性特有の犯罪、暴力その他がない街が欲しい。自分はそこに住みたい」
ということだろう。

つまりはある種の思考実験であり、悪く言えば感情論のなれの果てである。

なので、ここからは冷静に詰めていく。

女だけの街待望論者だけの専売特許ではまったくなく、この世の中のけっこうな数の人間は、
「優秀な人間だけで社会を構成すれば、その社会はうまくいく」
という、謎の優生思想を持っている。
頭が良く、優しく、誰にでも公平に接し、それでいて力は強く、なにをやらせてもそつなくこなし、かつ他者を思いやる。
そういう人間だけのこし、あとの愚劣な輩は溶鉱炉にでも放り込む。
そうすれば、たいへん住みよい、よい社会が出来上がる。
具体的に言えば、そういう思考だ。

こういう考え方をする人は、効率、ということを大抵、度外視している。

上記のような人間として想起されるのは、大谷翔平とか藤井聡太とかだろうか。女性ならば、最近流行の動画を出している「天文物理学者BOSSB」とか。
しかし。そのような人間「だけ」で社会を構成しよう、と考えるのは、たいへん効率が悪いのだ。
具体的な「現象」で説明したい。
炭鉱で栄えた街の人間の気性がものすごく荒いのは、九州のとある街で説明不要なほどだろうし、東大生出身の野球選手は数としてたいへんに少ないことは既知の事実だ。小林至しかしらん。しかも大成しなかった。
人間というのは……いや、動物、生命というのは、よほどのイレギュラーがないかぎり、身体能力とその性向はある種の同調があるものなのだ。
力の強い者は総じて粗野だし、頭脳に特化した人間の筋力は大抵弱い。
これを、男女差別ぎりぎりの文言で男女問題に落とし込むならば、男というのは総じて粗野だし、女性というのは非力なのだ。

そして、そのような傾向をぶち破った「イレギュラー」な才能を持つ者というのは、存在自体が特殊なのであり、はっきり言うと「恐ろしく数が少ない」。
この、数が少ないものだけを遺して後は捨てる、という考え方は、美味しんぼでいうならば、「鯛のホホ肉だけを取り、残りは捨てる」というやり方に等しい。
もったいない。きちげぇざた。むかつく。馬鹿。いかれてる。
いろんな言い方や罵倒があるだろうが、煎じ詰めれば「効率が悪い」ということに他ならない。

人間社会は、社会をどのような人材で保持しているかと言えば、
「優秀な人間は社会制度の設計に携わり、その設計下のもと、働き蜂的なポジションにある普通の人がその管理、監理を担い、粗野だが力があるドンキーが馬車馬のように現場で働く」
となっている。
当然現場では、粗野が故の過ちは問題として発生するし、優秀な人間だとて間違わないわけではない。どころか優秀ゆえの汚い犯罪を犯すことだってもちろんある。
万全ではないが、「適罪適処」……私の造語だが、罪に対して適度な罰を適度に処すことで、社会の維持を円滑にする……の精神で、ある程度のことには目を瞑り、社会を回しているわけだ。

いわば、この社会は、賢者は賢者なりの、愚者は愚者なりの仕事と役回りとポジションがあり、どの人間がいなくなってもそれなりに困る、ということである。

不愉快な話だが、なので女だけの街待望論者には、こう結論を伝え、締めくくりたい。

「社会がどんなに不快でも、鯛のホホ肉だけをむさぼり食うことに罪悪感のない人間よりは不快ではない」

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