一子相伝の暗殺術
お江戸八百八町、世は戦も無く天下太平、街は活気に溢れていた。
行き交う人々に腰も低く笑顔で頭を下げ、店の前をひしゃくで水を撒きながら挨拶をする丁稚。
砂埃を巻き上げながら勢いよく荷車を引く若い人夫達。
着物で着飾った町娘をからかう、朝っぱらから酔っ払った遊び人。
いくら頑張っても士農工商は変わらねぇ、商人から武家になるなことなんてあるはずがねぇ。だから一日適当にやって夜は旨い酒を飲むんだ。
現代には見られぬ「絶対的な身分制」の前で、諦めの中でも愉しくやろうとする一種の「おおらかさ」が、このお江戸の笑顔の源なのだろう。
その人混みの中を、俯き加減で人目を気にしながら早足で歩く、仕立てのいい茶色の羽織を風に揺らせながら大事そうな包みを抱える初老の男。
ここ数年、断続的に飢饉が起こっているのに、男の身体はでっぷりと肥えていた。
「お取り次ぎ願いたい」
商人風の男は棒を持って立つ門番のいる立派な屋敷の前で歩を止めた。
品定めするような目で門番は下から舐め回すように見る。辺りを数回見渡しながら商人、袖の下から金色の光る粒を取り出すと門番の手に握らせる。
掌を見た門番、用件もろくすっぽ聞かず、上機嫌で奥へと駆けていった。
屋敷の門には「北町奉行所」とある。
しばらくすると先ほどの門番が「ささ、こちらへ」とでもいうように、無言で商人を屋敷内へ招き入れる。取り次ぎは上手くいったようだ。
飾り付けも簡素で、思っていたよりも質素な控えの間に通される。
着付けを直している時に、目の前の襖が音も無くスーッと開いた。
「拙者が北町奉行である。いかような用件じゃ、その方なんと申す」
「ははーっ、越後屋と申す者で」
「おぬしも悪よのぅ」
「いえいえいえ、まだ何も悪いことをしておりませぬが」
「名前からして悪いことをするド定番ではないか。ワシの目は誤魔化されぬぞ。それに門番に賄賂を握らせた事も確認を取るまでもなくお見通しじゃ。きゃつがあのようにはしゃいで取り次ぎに来たのは初めてじゃ。きっと勤務あけに飲み行く算段でも立っているのであろう」
「ひゃーっ、おみそれいたしやした。さすが噂にたがわぬ名お奉行」
「こそばゆい、よさぬか」
「北町奉行様、いや、近山右衛門の尉様、かつての名奉行、遠山左衛門の殿様に近付こうと、改名までしてお勤めに励まれる姿勢、全くもって頭が下がります」
「少しでもあやかりたい。と思うての」
「加勢大周の後継が、新・加勢大周を名乗るような心境でございましょうか?」
「そなたが何を申しておるのか、さっぱりわけがわからん」
北町奉行は不審げな目で越後屋を見つめる。
「本日はお日柄も良く、お奉行様におかれましては…」
「まわりくどい前置きはよいわ。越後屋、そなたは来る奉行所を間違えたのではあるまいか? そなたが向かうは南町奉行所、賄賂をカゲでバンバン受け取り、金によって物事を取りはからう奸物、中岡越中の守。かつての名奉行、大岡越前の守のパクリのような品の無い名前を付けよってからに」
人の事は言えないではないか、と越後屋は内心思う。
「その懐へ大事そうに抱えておる包み、それは賄賂であろう」
「いやはや、参りましたな。時にお奉行様、世にお金の嫌いな御仁はおりましょうや?」
「無駄じゃ、越後屋。どんな手を使おうとも、ワシは受け取らん。クリーンな仕事がワシのポリシーなのでの」
「生きてきてここまでの感銘は受けたことがござりませぬ。心が滝壺で洗われるようなすがすがしい気持ち。ありえない? アリエールでしょ」
「そなたは何の用事でここに来たのじゃ?」
「隠しますまい、私も賄賂でこれまで散々悪事を働いてまいりました。それが今、お奉行様にお会いして「人として」大事なことを忘れておった次第にござります」
「これこれよさぬか、褒めてもワシの方からは何も出ぬぞ」
越後屋は包みを脇に置き、中腰になってすこし前のめりになりながら北町奉行の顔色を窺う。
「人間の鏡、奉行の鏡、その潔癖な生き方では、さぞかし邪魔もされたことでしょう。それでも今の地位まで上り詰めたのは、お奉行様の清き心が正しかったということ」
「これこれ、こそばゆいわ。もうよさぬか」
「老中の水野、鳥居の悪徳政治に敢然と対立し、曲がったことは意地でも曲げず、将軍様からもお墨付きを頂く精勤ぶり」
「そうじゃ、かなりいじめられたわ、悔しい。心労でこのように心の臓の病を患うほどになったわ」
「正しいことを命を張って貫き通す。あなたはまさしく江戸の生き神様です」
「よ、よさぬか、言い過ぎじゃ、なんか胸が苦しい」
越後屋は立ち上がり、胸を押さえて片手をつき肩で息をしている北町奉行へ覆い被さるように身構える。
「奉行の中の奉行、ザ・奉行。歴代最高の名裁き、その流し目は後家殺し」
「勿体ない、言葉が過ぎるぞ、越後屋、ワシが遠山左衛門の殿様を超えたとでも申すか?」
「越えるも越えないも、この賄賂の中を見ようともせず、つっぱねる清き心、とっくに飛び越えておりますわ」
嬉しさの余り北町奉行、近山右衛門は、畳の上でのたうちまわる。浮かぶ至福の笑顔。越後屋はまるでとどめを刺すかのように、全部の爪を近山に向け、悪の帝王が指先から電撃を出すような格好で追い詰める。
「抱かれたい。私は男だが、貴方に抱かれたい。それくらい貴方は素晴らしい人間だ」
「グワーッ」
北町奉行は奇妙な声を上げると、海老反りで痙攣しながらそのまま息絶えた。
一瞬の静寂。襖がゆっくり開く。出てきたのは先ほど話題にでも出た、悪徳奉行、中岡越中の守である。
「済んだか? もう死んだのか?」
「はい、すっかりこときれております」
「ふぅ、これで賄賂政治を批判する邪魔者はいなくなった。それにしても、そなたの呪術は凄いの。本物じゃ」
「一子相伝にございます」
「どういう術じゃ?」
越後屋が中岡越中の守に耳打ちする。クワッと見開かれる目。
その後、目明かしの捜査でも下手人は上がらなかった。十手持ちの平三は越後屋と南町奉行が怪しい、と長年の勘で分かっているのだが確証が無い。
二人を北町奉行所で見かけた。という町人の証言もある。
一度、平三は中岡越中の守に用の傍ら話しかけてみた。
「北町奉行様が不審死されたあの日、お奉行様はどちらへ?」
「ワシは江戸城へ登城しておった」
「私には殺しの匂いがします」
「外傷もなく死ぬものかのぅ、きっと寿命であろう」
「死因は公表してございません、なぜ外傷がないことをご存知で?」
中岡越中の守は何も答えなかった。
万事休す、平三の捜査も空しく事件は迷宮入りとなった。江戸の町民から慕われていた北町奉行、近山右衛門の殿の死は長く人々の口で語り継がれた。
平三が調査の際、小間使いから聞きつけた唯一の事件と関連のありそうな証言。
「へえ、わたくしめが廊下を通りかかった際、襖の奥から『褒めてもワシの方からは何も出ぬぞ』という話し声が漏れて参りました」
天保十六年、町人に愛された奉行の不審死事件が語源となる。これが『褒め殺し』という言葉の由来であった。
〜終劇〜(*よい子は信じちゃいけないよ)
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