文章の神様

県でも有数の大型書店で、派手に設営されたサイン会場。

長テーブルには、刷り上がったばかりのハードカバー本が山積みされている。

垂れ幕には「失意の悲劇」峰史郞の文字が大きく刷られていた。

長年第一線で活躍しているベストセラー作家だ。

著書名は知らなくとも、サスペンスドラマ化された役者名を言えば「あぁ、あの話の」と街行く人々の多くが答えることだろう。

長者番付に名を連ねる常連でもある。

「お店のオープンは10時からですよ、先生。まだ一時間もあります」

店のスタッフが長テーブルの前で落ち着きなさそうに立っている和服姿の男、峰史郞に声を掛ける。

「あっ、いや、すまないね。何度やってもサイン会というものは緊張するものでね。適当に時間を潰しているのでお構いなく」

書店のスタッフは文豪の気さくな返答に、笑顔で会釈し開店の準備に戻っていった。

峰史郞は帯が光る真新しい自著を前にして、感慨深く息を吐く。

二十歳でデビューして三十年。投稿作品が審査員の満場一致で受賞、即デビュー。刊行された処女作は空前の売り上げを記録した。

メディアも新星の登場を黙って見てはいなかった。作品は瞬く間にテレビドラマ化され、映像作品も絶妙な配役と相まって飛ぶように売れた。

富も名声も手に入れた。自分には不釣り合いの美しい妻を迎える事もできた。

全ては「あの日の事件」から始まったのだ。

三十年の作家生活は峰史郞にとってどういう想いであったのだろう。

それは常に恐怖がつきまとうものであったに違いない。

何度もフラッシュバックする二十歳の頃のデビュー前夜。

「もういいかげんいい思いはしただろう? いつまでしがみついているんだ」

「金の亡者か? 見苦しい。最後は綺麗に自分で幕引きをしようとは思わないのか?」

「お前の時代は終わったんだよ」

若き峰史郞の前に立つ老齢のベストセラー作家は、真っ青な顔をしてガタガタと震えていた。

若気の至りとは言え、今思えばひどい事を口走ったものだ。

それからあの老齢作家はどこへ消えたのだろう。あっという間だった。あれだけベストセラーを連発していたのが嘘のように、世間から完全に忘れ去られてしまった。

そして峰史郞の時代が始まった。「アレ」を引き継いだからだ。

何の不安も心配もなかった「はず」だった。アイデアは湯水のように湧き、金は使い切れぬくらい転がり込み、妻とは何度も世界旅行に出かけた。

周りからは「順風満帆で満たされた人生」と映ったことだろう。

しかし峰史郞の心の奥には、常に恐怖がまとわりついていた。

「驚いたな。夢で見たのと同じだ」

不意に後ろから声を掛けられ峰史郞は振り返る。

「すいません、サイン会は10時からのようです。まだ準備中なので、外でお待ち願えますか?」

若い男はニヤニヤして立っている。店の照明は全部点灯してはいない。暗がりでスポットライトを当てられているようであった。

「いつも著書は拝見させて頂いてます。作家志望の森井と申します。夢であなたの横に立つ小さい人に呼ばれてここまで来ました。座敷童、みたいなものなのでしょうか?」

峰史郞の目は恐怖で大きく見開かれた。同じだ、私のあの日と同じだ。

夢の中で「文章の神様」と名乗る小人から「迎えに来て欲しい」と呼ばれ、どこをどう歩いて辿り着いたのか、若き日の峰史郎は老齢ベストセラー作家のサイン会会場に立っていた。

そして「文章の神様」を横に従え、作家から奪い去るようにして連れて帰ったのだ。

次の日からの栄光の日々は、改めて今更ここで長々と書かずともよいだろう。

「ま、待て、待ってくれ。まだだ、まだ終わりたくない。私の作品資料記念館も建設予定に上がっているし、妻とまだ行っていない所だってある」

「『あなたの次』はたくさん順番を待っているんですよ。もういい思いは充分にされたはず。あなたの輝かしい栄光と活躍には、こういうカラクリがあったのですね」

「か、金ならいくらでもやる。い、いくらだ、いくら欲しい」

「あなたも若い頃は、貧乏して物書きに打ち込んでいたのではないのですか? その時に一番欲しかったのはお金なんかじゃなかったはずです」

森井は峰に手を差し伸べた。すると人間にはこれまで見えるはずのなかった『ソレ』が、キラキラと光る足跡を残しながら峰のそばから離れていく。

「ま、待ってくれ、行くな、行かないでくれぇ」

峰史郞の背中に悪寒が走った。全身から力が抜けたような、気力や活力がどこかへ吹き飛んでしまったようだった。

森井は『文章の神様』の頭を撫でながら、ゆっくりと立ち去っていく。

峰史郞は泣きながらその後ろ姿を恨めしそうに見つめる。そして自分の若い頃を思い出す。

「老作家はあの時どうだったろう。失意に打ちひしがれ、泣き叫んでいたように思う。しかし俺は迷わず連れて帰った。それが今はどうだ。あの時と同じじゃないか」

峰史郞は胸に硬い物が当たっている事に気付く。そうだ、金を持ちすぎ、つまらぬトラブルが多いため、護身用にポケットナイフを購入したのだった。

「俺は違う。俺はあいつとは違う」

峰史郞はナイフを取り出すと、ためらわず森井に向かって突進した。

そして何度も何度も突き刺した。

こいつを殺せば帰ってくる。行き場をなくした『アレ』が俺の元に帰ってくる。

峰史郞の周りに暖かい温もりが広がっていく。先ほど失った覇気が戻ってきたに違いない。やれる、まだやれる。ベストセラーを出し、世間から喝采を浴びるのだ。満たされる、なんて温かいんだ。まるで血に包まれているようじゃないか。

「もう一回巻き戻し、出来ますか?」

刑事は警備室の詰め所で、防犯カメラが記録した映像を確認していた。

「他の角度はないんですか?」

「このフロアはここだけしか映っていないんですよ」

警備員が刑事に申し訳なさそうに言う。

「このフレームの外に、誰かいるんだろうな。峰史郞はそいつと話をしている。そのあとだな、凶行は」

「じゃあ再生しますね」

刑事は腕を組んでモニターを覗き込む。

「これは声は録音されていないんですか? 何を話していてこうなったんだ。それさえわかれば」

「声は録れません。映像だけなんです」

刑事の目が大きく見開かれる。

「ここ、ここだ。いきなりナイフを胸から取り出して、何故いきなり自分の首を刺したんだ? それも何度も」

「笑ってる? これ笑っていますよね。なんかすごく満たされたような顔で」

警備員も横から覗き込む。

「突き刺す度に悦びが増している様にも見える。ヤケクソなのか?」

刑事が言う横で警備員がテレビを指差した。

「そうかもしれませんよ。峰史郎の突然の自殺のニュースの前に明るみに出た巨額の詐欺事件、資産のほとんどを騙し取られてますね。それと同時に奥さんの不倫発覚。自殺するのも仕方ないですかね」

「資産は消え去って綺麗な嫁さんも逃げて自らは死んだ。人生チャラとはいえ、ヒデェもんだな」

刑事は事件性が無い、と判断し、自殺で報告をまとめようとしていた。

そこへ書店員が詰め所に入ってきた。

「刑事さん、そろそろ書店の方、営業再開してもよろしいでしょうか?」

「あぁ、どうぞ、構いませんよ」

「おかしいんですよねぇ」

「ん? 何がでしょう」

刑事が聞く。

「あっ、いえ、事件があったとはいえ、亡くなった峰史郎さんの本、朝から一冊も売れていないんですよ」

「一冊も?」

「ええ、関連店、加盟店でも一冊も売れなくて。いつもは発売日は飛ぶように売れていくんですがねぇ」

「そんなことってあるんですか?」

「今までで一度もありませんよ。自殺してニュースになれば、話題で逆に品切れになってもおかしくないんですがねぇ」

〜終劇〜


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