一流コック

 会社の可愛らしい美熟女事務員さんと会話したいがために、大して興味も無い昼のランチの旨い店を教えあう話題で、どうにかこうにか盛り上がることができた。
 向こうは俺を驚かせようと、あまり知られていないマイナーな店をいくつか紹介してくれた。丁寧に教えてくれる姿があまりにも健気で、惚れそうになってしまった。
 休みの日、会話を繋ぎたい一心で、教えてもらった洋食屋へ行ってみることにした。
 事務員さんの説明では昼のランチセットがリーズナブルな価格設定で、ボリュームもある、私は悪いとは思っているけど少し残してしまう、ということであった。その絶滅危惧種的な昭和の乙女な感じに、また惚れそうになってしまった。
 説明の通りで、店は大通りから一本中に入った裏通りにある小さな店舗であった。
 中もこじんまりとしており、家庭的なムード、といえばそうなのだろうが、どう頑張っても五組くらいしか収容できそうにない。よく利益が出せているな、と感じた。
 ウエイトレスの姿も見えず、どうやらコックである店主が一人で切り盛りしているようであった。
 メニューを見るとなるほど、あの腰のくびれた美熟女事務員さんなら残してしまうほどの、大盛り洋食プレートの写真が何枚か掲載されていた。
 AからEのセットはどれも美味しそうに見えた。
 俺はメインをハンバーグに据えたセットを注文した。
 しばらくして運ばれてきたプレートは写真よりも大盛りで、ドカ盛りと呼んでもいいくらいの量であった。
 舌鼓を打ちながらランチを楽しんでいると、ようやく他の客が入店してきた。
 一目見て俺は「ゲスい」と思った。マツコ・デラックスのような衣装で二人とも巨漢の中年女性。一人はベビーカーを押し、赤ちゃんは大泣きしている。
 赤ちゃんが泣くのは構わないが、隣の席に座ったオバハン共は、赤ちゃんを泣きやませようとする気など全くなさそうで、メニューを見るのに必死である。
 ベビーカーを覗き込んでみると、顔を真っ赤にして泣いており、白いフリフリのついた可愛らしい帽子を被ってはいるが、小さい顔を思い切り歪ませて何かを訴えている。
 ちょっとした臭いも気のせいか感じる。大の方を漏らしているのではなかろうか。
 そんな心配など欠片も持ち合わせず「赤ちゃんは泣くのが仕事ですから」と言わんばかりに堂々とメニューを見続けていた。
 俺の一番嫌いなタイプである。
 どちらも厚化粧だが、鼻が上を向いた方の女が厨房に向かって声をかけた。
「すーいーまーせーん」
 舐めた言い方である。奥からコックが慌てて出てくる。まだ火がついたように赤ん坊は泣き叫んでいるので、何故かコックが俺に頭を下げる。
「いえいえ、気にしてませんよ」
 の意味を込めてこちらも軽く頭を下げる。
「あのぅ、このAセットがいいんですけどぉ。ステーキの横メンチカツじゃないですかぁ。これをBセットのエビフライに変えて頂くことって因みに可能ですかぁ?」
 出た。俺の一番嫌なタイプの客だ。俺が店主なら『無理だね。余所行ってくれ』と間違いなく即答する類の人間だ。
 食べながら隣の席を盗み見る。コックは蝋人形のような作り込んだ笑顔を浮かべてはいるが、目の奥は笑ってはいない。プルプルと痙攣しているようにも見える。
「はい、大丈夫ですよ」
 おぉ、よく耐えた。
「それでぇ、ライスセットはご飯にサラダが付くじゃないですかぁ。このサラダをお値段一緒でミニポタージュに変えて頂くことって可能ですか?」
 今度は先ほどよりもコックの沈黙が長い。
 これだけ手間を増やせば少し料金を足してもいいくらいだと思うのに、こいつらは価格据置を要求している。コックは感情を押し殺しているのか、泣いている赤ん坊のベビーカーを前後させはじめた。良いリズムなのか、次第に赤ん坊の泣き声が小さくなっていった。
「あら、すいませんね。で、ポタージュ変更は可能ですか?」
「あぁ気分が悪い」
 俺は助け船を出す気持ちで、つい声を荒げてしまった。
「アナタ何?」
 おぉ、オバハン達怯む様子がない。神経図太い系らしい。
「店は効率を考えてセットを提示しているんだ。それに従えよ」
「なんで赤の他人のアンタにそんなこと言われなきゃいけないのよ。お店がダメっていえば引き下がります。お金を出すのは私たちですからね。お店との交渉でしょう、これは」
 赤ん坊の親ではない頬が相撲取りのようなオバハンが、スマホを向けて動画を撮影し始める。
「私たちインスタのフォロワー三万くらいいるインフルエンサーなのよ。オッサン、私メンチカツアレルギーなんですけど。無理して食べて湿疹出たらあなたのせいなんですけど」
 そんなアレルギー聞いたことない。
「オッサン、あんたの恫喝、録画したわよ。あしたの目覚ましテレビ朝一のニュース、楽しみね。人生詰んだわね。私テレビ局に知り合いいるのよ」
「お、お客様方、落ち着いて。出来ます。出来ますからどうぞ穏便に」
 フンと鼻を鳴らし、オバハン共はようやく視線を逸らした。
 コックがずっとベビーカーを前後させているお陰で、赤ん坊は泣きやんで眠ったようであった。これも腹が立って仕方がなかった。親としてどうなのだ。
「わたしはー、Dセットのぉ、オムライスの横にあるミニグラタンを、ナポリタンに変更って出来ますぅ?」
 まだ言うか。こいつらは一体どういう神経をしているのか。コックを見ると小刻みに震えている。怒りを我慢しているに違いない。
 それならばオムライス単品にナポリタンを注文すれば良いではないか。『価格が上がる』『ナポリタンが多すぎる』くらいがオバハンらの主張だろう。
「えっ、ええ。で、出来ますよ」
「それでぇ、トーストセットのサラダあるじゃないですかぁ。私、きゅうりアレルギーなんですよぉ。きゅうりを抜いてもらってその値段を埋める意味でアメリカンチェリー一個と交換ってことは因みに可能ですか?」
 言い方はバカ丁寧だが、これはほとんど恐喝ではないのか? 二人はすでにインフルエンサーだ、と公言している。こういう小さい店にとって、口コミは重要で下手をすれば致命傷になりかねない。
「だ、だ、大丈夫ですよ。ちょっと変則になりますのでお時間少々頂きますが、その間当店の紹介ビデオを流しますのでお待ちください」
 コックはリモコンを壁掛けテレビに向けた。音量を上げる。赤ちゃんが起きないように、のぞき込みながら通路の端まで移動させていった。
 俺もついでにビデオを見た。それはコックが自分で作った産地や材料の紹介ビデオで、こだわりの米や、肉の産地、料理する水は水道水を一切使わない、天然水を使用した手間暇を説明しており、食べている途中であったが、旨さが増した気がした。
 俺の食後のホットコーヒーを運んですぐに、オバハン共のわがままプレートが運ばれてきた。
 そうしてコックは大皿を一枚、二人の中央に置いた。
「あら? 子羊のラムステーキなんて注文していないわよ。お隣のオッサンのじゃないの?」
 鼻が上を向いたオバハンが俺の方を見る。
「誰が注文するか。あんたらの体型なら楽勝で入るんじゃないのか?」
「なんですって?」
 頬が相撲取りのようなオバハンが再びスマホを取り出し、動画機能で撮影し始める。
「お、お、お待ちください。これは当店からのサービスでございます。ぜひインスタで当店のサービスを広めて頂きたく」
 俺は正義が負けた瞬間を見た。コックはプライドと引き替えに三万のインスタフォロワーに宣伝してもらう道を選んだ方が得策、と判断したのだ。
 こういうのを野放しにする今の日本。本当にこれで正しいのか? ややこしいセットの変更。我が儘な内容物の変更。そうして侮れない素人の影響力。俺はオバハン共を静かに睨みつけることしかできなかった。それが俺なりの正義であった。そしてコックは今晩、悔しさを押し殺して、酒でも飲むのだろうな、と思っていた。
 言ったもの勝ちか。俺の気持ちは沈み込んでしまった。クレーマーに懇切丁寧な社会。あんなサービスレアステーキが出て来るのなら、俺もなにか言えばよかったかな。
 そう思っていた時に赤ん坊の母親が席を立ってトイレの方向に向かった。
「赤ちゃん! 私の赤ちゃん」
 母親が半狂乱で叫んだ。
「どうしたのよ」
「私の大事な赤ちゃんがベビーカーから消えたの」
「ええっ? ハイハイしてどっか行ったんじゃない?」
「まだそんなこと出来ないわよ。どこ? どこなの? 私の大切な赤ちゃん」
 髪の毛を掻き毟りながら母親は絶叫している。このままでは発狂するだろう。
 何故赤ちゃんは消えたのだ? コックが泣きやませてビデオの音量を上げ、ベビーカーを遠ざけたのが最後ではなかったか。
 俺は嫌な予感がして厨房を覗いた。
コックと目が合う。人間とは我慢しすぎたら、あのような目の色になるのか。完全に狂っているように見える。コックは指を口元に当てシーッというジェスチャーを取った。そうして血塗れの包丁を可愛らしいフリフリの付いた布で拭き取っていた。どこかで見たフリフリの布だ。そんな布、料理で使うのか? 一体どこで見た?
 最悪な予想が頭の中を駆けめぐる。いやいやいや、同情できない、賛同できるわけないだろうコックよ。
 半狂乱の母親をよそ目に、友達のオバハンはナイフとフォークを忙しく動かしながら、今となっては何だかよくわからない血の滴るレアステーキを、未だせわしく口の中へと運び続けている。

〜了〜

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