先輩の頼みごと

 今から二十年ほど昔のこと、私が三十歳前後の話だ。その時働いていた職場の先輩から、休憩時間に声をかけられた。その先輩とは入社以来余り交渉がなく、嫌いというわけではなかったのだが、向こうも内気な感じで話をするのが好きなタイプではなかったので、ほとんど接点のない先輩であった。
「呉君、今度の休みヒマ?」
 私が一人の時を狙って、先輩が喫煙コーナーにやってきた。その当時私は、一日に二箱はタバコを吸うヘビースモーカーだったのだ。タバコ美味かったなぁ。煙吐き出す時快感だったなぁ。いやいや、脱線で話が長くなりそうなので強制閑話休題。
「いや、特に用事はないですけど、な、何です?」
 私は面食らいながら聞き返した。休みの日に一緒に遊ぼう、という仲でもなかったからだ。
「インターネットで困ったことになってね。呉君、そういうの好きだったよね、確か」
 私が呉エイジと名乗り、既にマックピープルで連載を抱え、月に2回の締め切りに追われる日々を送っていた頃だ。もちろん会社の人には内緒にしてある。インターネットが普及し出した頃で、携帯もまだPHSを持っていた時代だ。
「いいですよ、で要件は何です?」
 この頃の私は、若く活力に溢れ、マックに早くから触れていたおかげで一般サラリーマンよりもPCに関する知識もあり、ネット接続で困る人の設定をよくしてあげたりした。(TCP/IP)とか、とにかく初心者には面倒臭かった。
 どうせパソコン設定のトラブルくらいだろう、と踏んで、先輩が『家のパソコンを、妻のなんだけどね、見て欲しいんだよ』という頼みごとを簡単に承知したのだった。
 もしかしたら先輩から謝礼をいただけるかも、という下心もあったし、先輩じゃなく奥さんがパソコンで困っているんだ、という驚きもあった。人妻、というキーワードも甘美に耳の奥で響いた。
 当日、メモに書かれたマンションに着き、エレベーターで先輩の部屋まで上がった。当時はスマホもグーグルマップも無かったので、どこそこの店の交差点から三つ目の角のなんとかマンション、という紙切れを頼りにしての訪問である。
「お邪魔します」
 緊張しながらマンションの一室に通された。先輩に招かれながらリビングに入ると、こたつテーブルに奥さんが座って待っていた。綺麗な奥さんだった。ニットの結構胸元がゆるゆるでガバガバのセーターを部屋着にしていて、もしもノーブラならば屈んだ時に乳首さんが隙間からこんにちは、しそうな感じであった。
 部屋の隅には当時主流だったブラウン管一体型のパソコン、ウインドウズ95マシンだったと思う、がラックに収まっていた。
「これがくだんのマシンだな」
 私が問題のPCを見ていると、先輩が要件を話し出した。先輩は冷静だが、奥さんは下を向き、暗い表情をしていた。
「実はね、呉君。妻がネットで酷い目に遭っていてね。呉君はパソコンに詳しいから、なんとか妻の過ちをネットから消し去って欲しいんだよ」
 その説明ではなんのことかサッパリわけがわからなかった。先輩が近付いてパソコンを起動する。そうしてインターネットに繋ぎ、ネットスケープを立ち上げて、あるサイトに接続した。
 画面には怪しさが溢れていた。エロサイトだな、と直感した。
「実はね、妻が浮気をしてね、それもこれもウチは残業がひどいじゃないか(※本当に酷かった。昭和のコンプライアンス、24時間闘えますか? の時代である)それで寂しさのあまり過ちを犯してだね、それがインターネットに出回っている、というんだよ。原因はこっちにもあるから妻とは話し合ってね、なんとか再構築していこう、という話になったんだ。で、あとはその過ちを消し去れば丸く収まるんだが」
 先輩がホームページのボタンをクリックした。画像のページに飛んだ。私もこの頃はホームページを作っていたので、何をやっているかは理解しながら見ていた。モデムがピーガー、言いながら、たかが数キロバイトの画像が上から段階的にカクカク表示されていく。今とは天地の差のある環境である。
 そうしてモザイクから実画像に変化していく。テレビ番組、クイズヒントでピント、のように。
 現れたのは、どうもラブホテルの一室での男女の行為のようであった。斜め後方から撮られている。男性の顔は見えないが、女性は両足を掴まれたまま大きく開かれ、男の尻で大事なところは隠れているが、胸はモロみえだった。
「妻なんだ、盗撮されて、それが会員に向けて販売されているらしいんだよ」
 私は俯いているコタツの奥さんの方を見た。そしてまた画面を見た。オッパイモロみえの奥さんは座っている奥さんに間違いなかった。
 私は眼球が半分ほど飛び出しそうな勢いで画面と奥さんを二度見した。
『(エッロ!)』
 と心の中で叫んだ。
「クリックして先を確認してやってくれないか」
 先輩が言うので仕方なく画像をクリックしていった。どんどん過激になっていた。とてもここでは書いてはいけないような肢体のオンパレードであった。全部見えていた。
 興奮もしたが、脳の別のところで『夫婦といっても色んな形があるもんだな』と思わずにはいられなかった。自分に置き換えたらどうだろう。嫁さんのこんな他人との画像を見るのは、嫉妬で耐えられない。離婚に至るだろう。よく再構築できるな、と正直思った。
「呉君の力で、これを全部選択して、ゴミ箱に移す、みたいなことは出来ないかな、さぁ、お前も頼みなさい」
「お願いします」
 蚊の鳴くような声で奥さんが頼んできた。
「思うところはわかりますが、それは素人には無理です。このホームページ作成者のアカウントとパスワードでも知っていれば可能ですが、この段階でこの表示されている画像を消すのは不可能ですね」
 奥さんは潤んだ目で私の方を見ていた。恥ずかしいのか、頬も少し紅潮している。そりゃそうだろう。今、振り返れば奥さんの秘部が画面に大写し、なのだから。
「これは警察とかに相談したほうがいいかもしれませんよ、ちょっと僕の力では無理ですね」
 私は正直なところを説明した。
「そうか、休みの日に悪かったね、さ、オマエ、玄関までお見送りするよ」
 そうして私は興奮しながら帰宅したのだった。これは実話なのだ。その先輩が離婚した、という話も聞いてはいない。
 何故、今、突然このエピソードを思い出し、書き残そうと思ったかというと、天啓の如く別の真相が浮かび上がってきたからである。
 よく思い出せば、あの暗がりでの行為のシーン、奥さんばかり見ていたが、記憶を辿れば、なんとなく先輩の体型のようにも思えてきたのだ。
「もしかして、そういうプレイに利用されたのか? 俺は」
 当時は考えもしない裏側の事情であった。
 あれから二十年が経過し、ウブな私の心もすっかり変容し、変態度が増して、この解決に至った、ということなのか。
「グローイングアップ……」
 カッコつけてタイピングしてはいるが、この解決に至らぬままのピュアなハートで生涯を終えても良かったのでは? と猛省を交えながら自問自答してみるのであった。

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