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『ありがとラッキーちゃん』補遺

 シーズーの愛犬、ラッキーちゃんが亡くなって時は流れたけれど、心の中から消えたわけではない。

 犬を飼う、ということは大変だった。細かい病気も沢山したし、お金も治療費含め物凄くかかった。

 ラッキー君が来てくれたお陰で、我が家は仲良く纏まった。子供たちも非行に走らず優しく素直に育ってくれた。

 犬の寿命は一日が十日に相当するんじゃないか、と思えるくらいに、ある日突然病状が悪化した。

 前日、会社から帰って犬の目線に合わせて身体を落とすと、いつも通り近寄ってきて頬をペロペロと元気よく舐めてくれた。

 それが一晩で力が抜け、全く立てなくなるのだから。

 夜に目が覚めてラッキーの方を見る。お腹が上下して呼吸しているのを見て安心する。

 こんなに辛いのなら飼うんじゃなかった。と、寝たきりになったラッキーを見て何度も思った。

 ラッキーは人生の、生き物の終焉を家族に見せてくれているのだ。生きていればいつか必ず訪れることなのだ。

 食事も取れず体力もほとんどないはずなのに、寝ながら吠えたので、嫁さんと表に出してみたら10メートルほどヨレヨレで歩いた。
「病気忘れていつもの調子で散歩したんだろうね」
帰ってから嫁さんと泣き笑い。

 それも後で家族の話し合いで知ったのだが、長女ちゃんが二人きりの時『最後の散歩、私が行きたかったな』と話しかけていたのだ。
それを聞いてラッキーは最後の命の火を燃やして立ち上がり、私と嫁さんと長女ちゃんの三人で朝の散歩に出かけ、10メートル気力で歩いてくれたのだ、という事がわかった。
不思議だけど、犬は人間の言葉を理解しているとしか思えなかった。

 ラッキーが倒れたのは電話で知った。嫁さんから仕事中に
「早く帰ってきて」
と泣きながら電話がかかってきたのだ。
『死に目に会えないかもしれない』
私はバイパス料金を支払い、自動車専用道路に乗ったのだが、乗った途端に大渋滞。つまらない『ながら運転』か何かでオカマを掘っている奴がいたのだ。
私は窓を開け、突っ立っている若者に
「しょうもない事故起こしとるんちゃうぞコラァ」
と大声で睨みつけながら怒鳴った。

 寝たきりになった後、虚空を見つめて時折吠えることがあった。何に向かって吠えているのかは分からない。もしかしたら近寄ってくる死神が見えて、近付かないように吠えて追い払っていたのかもしれない。

 ずっと苦しい呼吸を続けていた。生まれた時に決まった心臓の回数を打ち切らねば、立ち上がれなくなっても逝くことはできないものなのか。

「アンタと大声で喧嘩した内容も、全部ラッキーちゃんに聞かれてたよな」
嫁さんが泣き笑いで言う。離婚せずに今があるのも、我が家にはラッキーちゃんの癒しがあったからだと思う。

 ラッキーは最後、数日間寝ていなかったと思う。寝たら死ぬ、事が分かっていたのかもしれない。こんな姿を見たら、自殺なんてできない。命は最後まで燃やし切らねばならない。

 生活の中で、不意に襲ってくる哀しみには参った。シャンプーしている最中に突然思い出して、泡と一緒に涙を洗い流した事が何度もあった。

 嫁さんと焼肉を食べに行けば、決まってこっそり焼いた何枚かをティッシュにくるんで、店員さんに隠れてお土産に持って帰るのが常だった。
嫁さんは『シーッ』というジェスチャーで嬉しそうにカバンの中に隠した。
玄関に入ると匂いで分かるのか、大喜びで吠えた。
「人間様の、それも一番高級なお食事なんだぞ」
と、お座りさせてから食べさせた。
ラッキーは
「こんな美味いものがこの世にあるのか?!」
という顔をした。

 死ぬ直前は家族交代で看病をした。スポイトで水を飲ませ、身体を撫でた。
『少し寝ないと』
私は言いながらラッキーの目を閉じるのだが、見開いて寝ようとしない。
そして嫁さんが風呂に入りそびれ深夜に入浴し、私が五分間、寝室から離れた間に、ラッキーは一人で旅立ってしまった。
私はこれまでの人生で、何かを見てあそこまで悲鳴を上げたことなどなかった。
ラッキー君は逝く所を家族に見せたら哀しむと思い、一人になるチャンスを気力でずっと待ち続けていたのだ。とっくに死んでいてもおかしくない状態だったのに。

 死後何年かは空を見上げて、雲を見ては似てもいないのに無理矢理ラッキーの形に当て嵌めて
「空からみてくれているんだ」
みたいな郷愁に何度も耽った。

 末期は顔を近づけてもペロペロする元気すら無くなっていた。あのドッグフードと唾液の混ざったラッキー独特の獣の匂いは、今でもはっきりと思い出すことができる。

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